2015年 07月 16日
五十猛(いそたける、いたける)
五十猛(西暦160年頃~220年頃)は対馬国・壱岐国・肥の国(佐賀県・長崎県)・伊都国・志摩国など北部九州の西半分を治めていたと考えられる。五十は磯で伊都国、猛は王、王子で、五十猛は「伊都国の王」と考えられる。伊都国は女王国(倭国)に属していた。
後に五十猛は紀伊国(和歌山県、木の国)を治めた。和歌山県には伊都郡もある。那賀郡もあったが現在は「紀の川市」となっている。人々が伊都国や那賀国(奴国)から紀伊国へ移住して来たのでしょう。
紀伊国一ノ宮の伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)も五十猛命(いたけるのみこと、伊太祁曽神)を祀っている。
五十猛は素戔嗚の第2子で、別名は射楯神(いたてのかみ)とも云う。
島根県仁多郡奥出雲町大呂(おおろ)の鬼神神社(おにかみじんじゃ、祭神は五十猛命と素戔嗚命ほか)の裏山に五十猛の墳墓(長円墳に五十猛尊御陵地の石碑)がある。近くの仁多郡奥出雲町横田に伊賀多気神社(いがたけじんじゃ)が鎮座、祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)。
当地は玉鋼(たまはがね)の産地で、6km東南には船通山(せんつうざん、鳥上山1,142m)があり、斐伊川はここから流れている。
鬼神神社の18km南には伊弉冉尊の墳墓と云われる比婆山(ひばやま、1,264m、広島県庄原市)がある。比婆は蹈鞴製鉄の「火場 ひば」のことであるとも云われる。
島根県大田市五十猛町(おおだし いそたけちょう)に五十猛神社(いそたけじんじゃ)が鎮座、地名にも神社名にもなっている。
五十猛の名は日本書紀と先代旧事本紀に記述があるが、古事記と出雲国風土記には記されていない。古事記の大屋毘古神や木俣神と同じと云われることがある。
記紀には出雲の斐伊川上流で素戔嗚が八岐大蛇を退治したと記されるが、出雲国風土記には記述がない。私見ですが、記紀に記されている「出雲」の地は島根県ではなく、北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)のことでしょう。
北部九州の東半分は素戔嗚尊と高皇産霊神が治めた。東部の豊国(投馬国)は饒速日が治めたと考えられる。
福岡県筑紫野市の筑紫神社(ちくしじんじゃ)の祭神「筑紫の神、筑紫の国魂」も五十猛という説がある。筑紫の国は白日別(しらひわけ)、五十猛は筑紫の国魂・白日別神。 神社の3.5km南西に基山(きざん、405m)がある。
福岡市西区の白木神社、糸島市王丸の白木神社の祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)。
佐賀県杵島郡白石町辺田の稲佐山中腹に稲佐神社が鎮座、五十猛神・大屋津姫ほかを祀る。鳥居は私の大好きな、どっしりとした肥前鳥居です。三の鳥居は1,585年築造の古い鳥居で白石町の重要文化財です。
佐賀県杵島郡の「杵島、きしま」の地名は五十猛(木の神)に由来する「木島」です。
妻山神社(稲佐神社の北3km、佐賀県杵島郡白石町馬洗、しろいしちょうもうらい)に「木の神」の抓津姫(つまつひめ)と兄の抓津彦命(つまつひこ、五十猛命)が祀られている。当社も美しい肥前鳥居で白石町の重要文化財になっている。神社の西に杵島山(345m)と勇猛山(いみょうやま、259m)がある。
杵島山は五十猛と妹の大屋津姫、抓津姫が木の種を蒔いたので名付けられ、勇猛山は五十猛のことです。
杵島の地は12代景行天皇の熊襲討伐記によると狗奴国領であったことを示唆している。
五十猛は素戔嗚の第2子ですが、五十猛が抓津彦と呼ばれていることは、素戔嗚の娘・抓津姫の婿だったのかもしれない。五十猛は海人族の要素が多い。天火明の孫に天村雲(天五多底、あめのいたて)があり、綿津見豊玉彦の孫に武位起(たけいたて)がいる。これが五十猛かもしれない。
私見ですが、海人族の要素の多い五十猛が素戔嗚の娘の抓津姫を妻としたので、五十猛は素戔嗚の子となった可能性がある。或いは五十猛の父は素戔嗚で、母が櫛稲田姫ではなく伊都国の海人族だったのでしょうか。
肥前国基肄郡(きいぐん、現・佐賀県三養基郡)の基肄も紀伊(木)でしょう。三養基郡基山町の荒穂神社(五十猛命)が元は基山山頂に鎮座していたので基山を神体山としている。
五十猛は製鉄族の素戔嗚と櫛稲田姫の第2子となっているが、統治地域は北部九州の甕棺墓の出土地域に重なる。甕棺墓は江南の海人族(倭人)の墓である。イソタケルはイソ(磯)のタケル(武)と解釈すれば海人族の名になる。
綿津見豊玉彦の孫に日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず)がいるが、「なぎさたけ」と「いそたける」は同じ意味になる。
安曇氏の祖と云われる磯武良(いそのたける、いそたけら、安曇磯良)も五十猛と発音が同じ。
五十猛の紀伊国統治地域は名草(なぐさ)郡であった。名草の由来は渚(なぎさ)なのか。郡名の由来について紀伊続風土記(1839年完成)に「ある説では渚の意味なり」と記されている。
五十猛、大屋津姫、抓津姫が全国で木の種を蒔いた故事は、「鉄穴流し(かんなながし)」で大量の土砂を流して山が崩れ、採った砂鉄を「蹈鞴製鉄」で大量の木材を使用して禿山になってしまったのを修復する意味合いがあった。
植樹により治山治水を行ったので五十猛は「木の神」、「林業の神」として信仰されている。
素戔嗚、五十猛、饒速日(大歳)など素戔嗚系を祀る神社は全国で圧倒的に多い。素戔嗚系が全国を統治した結果の根強い信仰でしょう。
しかし、記紀には素戔嗚系の立場が悪く、高天原から追放され天津神から国津神に落とされる。これは663年の「白村江の戦い」で唐と新羅に大敗し1万名もの死者が出たことと関係があるでしょう。記紀が成立したのはその50年後であるから、新羅と縁の深い素戔嗚系を落とし込む必要があった。
白村江の戦いから150年後の810年になると52代嵯峨天皇が即位し、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり」と讃えた。これで素戔嗚系の名誉は復活するが、事跡は消されたままで蘇らず、分からないことが多い。
私見ですが、素戔嗚の代わりに皇祖とされた天照大神は一柱の神ではなく、41代持統天皇と藤原不比等により三柱の神が習合されたと考えています。
最初の一柱は素戔嗚の姉とされる天照大神で、野椎神(のづちのかみ)の可能性がある。
次の一柱は西暦179年頃出生で201年頃に女王となる卑弥呼が考えられる。卑弥呼が247年頃に亡くなる(天照大神が天の岩屋に隠れる)と、次の一柱は235年頃出生で248年に女王となる(天の岩屋から現れる)臺與が考えられる。
この三柱の神を習合して天照大神として祀ったと私は考えています。そして持統天皇を天照大神の再来として位置づけた。和風諡号は高天原広野姫天皇です。
神話と歴史を混ぜるなとおっしゃる方々にはご容赦願いますね。
次の図をクリックし、プラスマークをクリックすると拡大します。
豊玉姫は豊玉彦の子ではなく、妻だという説がある。豊玉姫の夫は彦火火出見で天火明も彦火火出見。豊玉彦と天火明は同一人か。同じ人物でも部族によって呼び方が違った。それは実名ではなく美称だから見方によって色々な名で呼ばれた。
後に五十猛は紀伊国(和歌山県、木の国)を治めた。和歌山県には伊都郡もある。那賀郡もあったが現在は「紀の川市」となっている。人々が伊都国や那賀国(奴国)から紀伊国へ移住して来たのでしょう。
紀伊国一ノ宮の伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)も五十猛命(いたけるのみこと、伊太祁曽神)を祀っている。
五十猛は素戔嗚の第2子で、別名は射楯神(いたてのかみ)とも云う。
島根県仁多郡奥出雲町大呂(おおろ)の鬼神神社(おにかみじんじゃ、祭神は五十猛命と素戔嗚命ほか)の裏山に五十猛の墳墓(長円墳に五十猛尊御陵地の石碑)がある。近くの仁多郡奥出雲町横田に伊賀多気神社(いがたけじんじゃ)が鎮座、祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)。
当地は玉鋼(たまはがね)の産地で、6km東南には船通山(せんつうざん、鳥上山1,142m)があり、斐伊川はここから流れている。
鬼神神社の18km南には伊弉冉尊の墳墓と云われる比婆山(ひばやま、1,264m、広島県庄原市)がある。比婆は蹈鞴製鉄の「火場 ひば」のことであるとも云われる。
島根県大田市五十猛町(おおだし いそたけちょう)に五十猛神社(いそたけじんじゃ)が鎮座、地名にも神社名にもなっている。
五十猛の名は日本書紀と先代旧事本紀に記述があるが、古事記と出雲国風土記には記されていない。古事記の大屋毘古神や木俣神と同じと云われることがある。
記紀には出雲の斐伊川上流で素戔嗚が八岐大蛇を退治したと記されるが、出雲国風土記には記述がない。私見ですが、記紀に記されている「出雲」の地は島根県ではなく、北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)のことでしょう。
北部九州の東半分は素戔嗚尊と高皇産霊神が治めた。東部の豊国(投馬国)は饒速日が治めたと考えられる。
福岡県筑紫野市の筑紫神社(ちくしじんじゃ)の祭神「筑紫の神、筑紫の国魂」も五十猛という説がある。筑紫の国は白日別(しらひわけ)、五十猛は筑紫の国魂・白日別神。 神社の3.5km南西に基山(きざん、405m)がある。
福岡市西区の白木神社、糸島市王丸の白木神社の祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)。
佐賀県杵島郡白石町辺田の稲佐山中腹に稲佐神社が鎮座、五十猛神・大屋津姫ほかを祀る。鳥居は私の大好きな、どっしりとした肥前鳥居です。三の鳥居は1,585年築造の古い鳥居で白石町の重要文化財です。
佐賀県杵島郡の「杵島、きしま」の地名は五十猛(木の神)に由来する「木島」です。
妻山神社(稲佐神社の北3km、佐賀県杵島郡白石町馬洗、しろいしちょうもうらい)に「木の神」の抓津姫(つまつひめ)と兄の抓津彦命(つまつひこ、五十猛命)が祀られている。当社も美しい肥前鳥居で白石町の重要文化財になっている。神社の西に杵島山(345m)と勇猛山(いみょうやま、259m)がある。
杵島山は五十猛と妹の大屋津姫、抓津姫が木の種を蒔いたので名付けられ、勇猛山は五十猛のことです。
杵島の地は12代景行天皇の熊襲討伐記によると狗奴国領であったことを示唆している。
五十猛は素戔嗚の第2子ですが、五十猛が抓津彦と呼ばれていることは、素戔嗚の娘・抓津姫の婿だったのかもしれない。五十猛は海人族の要素が多い。天火明の孫に天村雲(天五多底、あめのいたて)があり、綿津見豊玉彦の孫に武位起(たけいたて)がいる。これが五十猛かもしれない。
私見ですが、海人族の要素の多い五十猛が素戔嗚の娘の抓津姫を妻としたので、五十猛は素戔嗚の子となった可能性がある。或いは五十猛の父は素戔嗚で、母が櫛稲田姫ではなく伊都国の海人族だったのでしょうか。
肥前国基肄郡(きいぐん、現・佐賀県三養基郡)の基肄も紀伊(木)でしょう。三養基郡基山町の荒穂神社(五十猛命)が元は基山山頂に鎮座していたので基山を神体山としている。
五十猛は製鉄族の素戔嗚と櫛稲田姫の第2子となっているが、統治地域は北部九州の甕棺墓の出土地域に重なる。甕棺墓は江南の海人族(倭人)の墓である。イソタケルはイソ(磯)のタケル(武)と解釈すれば海人族の名になる。
綿津見豊玉彦の孫に日子波限建鵜草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず)がいるが、「なぎさたけ」と「いそたける」は同じ意味になる。
安曇氏の祖と云われる磯武良(いそのたける、いそたけら、安曇磯良)も五十猛と発音が同じ。
五十猛の紀伊国統治地域は名草(なぐさ)郡であった。名草の由来は渚(なぎさ)なのか。郡名の由来について紀伊続風土記(1839年完成)に「ある説では渚の意味なり」と記されている。
五十猛、大屋津姫、抓津姫が全国で木の種を蒔いた故事は、「鉄穴流し(かんなながし)」で大量の土砂を流して山が崩れ、採った砂鉄を「蹈鞴製鉄」で大量の木材を使用して禿山になってしまったのを修復する意味合いがあった。
植樹により治山治水を行ったので五十猛は「木の神」、「林業の神」として信仰されている。
素戔嗚、五十猛、饒速日(大歳)など素戔嗚系を祀る神社は全国で圧倒的に多い。素戔嗚系が全国を統治した結果の根強い信仰でしょう。
しかし、記紀には素戔嗚系の立場が悪く、高天原から追放され天津神から国津神に落とされる。これは663年の「白村江の戦い」で唐と新羅に大敗し1万名もの死者が出たことと関係があるでしょう。記紀が成立したのはその50年後であるから、新羅と縁の深い素戔嗚系を落とし込む必要があった。
白村江の戦いから150年後の810年になると52代嵯峨天皇が即位し、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり」と讃えた。これで素戔嗚系の名誉は復活するが、事跡は消されたままで蘇らず、分からないことが多い。
私見ですが、素戔嗚の代わりに皇祖とされた天照大神は一柱の神ではなく、41代持統天皇と藤原不比等により三柱の神が習合されたと考えています。
最初の一柱は素戔嗚の姉とされる天照大神で、野椎神(のづちのかみ)の可能性がある。
次の一柱は西暦179年頃出生で201年頃に女王となる卑弥呼が考えられる。卑弥呼が247年頃に亡くなる(天照大神が天の岩屋に隠れる)と、次の一柱は235年頃出生で248年に女王となる(天の岩屋から現れる)臺與が考えられる。
この三柱の神を習合して天照大神として祀ったと私は考えています。そして持統天皇を天照大神の再来として位置づけた。和風諡号は高天原広野姫天皇です。
神話と歴史を混ぜるなとおっしゃる方々にはご容赦願いますね。
次の図をクリックし、プラスマークをクリックすると拡大します。
豊玉姫は豊玉彦の子ではなく、妻だという説がある。豊玉姫の夫は彦火火出見で天火明も彦火火出見。豊玉彦と天火明は同一人か。同じ人物でも部族によって呼び方が違った。それは実名ではなく美称だから見方によって色々な名で呼ばれた。
by enki-eden
| 2015-07-16 00:23