古代史探訪

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饒速日命(にぎはやひのみこと)

 古事記では邇藝速日命と記され、物部氏、石上氏、穂積氏、厚東氏、阿刀氏、熊野国造、三河国造などの祖神。弓削氏も関係が深く、物部守屋(587年没)の父は物部尾輿、母は弓削倭古の娘・阿佐姫で、物部守屋は物部弓削守屋(弓削大連)と称した。

 饒速日命は物部氏の祖神名や先代旧事本紀に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」と記される。この長い神名は物部氏側が、天照国照彦天火明尊(海部氏・尾張氏の祖神)と櫛玉饒速日命(物部氏の祖神)を同一視して両氏の同族を強調して繋げたものと考えられる。
 海部氏や尾張氏側は同一視していない。

 両祖神は別神で、私見によると天火明命は西暦140年頃出生の海人族、饒速日命は素戔嗚の第5子で、165年頃出生の製鉄族・製銅族、子孫の物部氏は祭祀・軍事を司る。

 天火明命の子孫は天孫族、饒速日命の子孫は天神族で別神である。それにも関わらず、後世の物部氏が饒速日命を天火明命と同一神にする必要があった。
 7世紀末の大和朝廷(41代持統天皇と藤原不比等)によって皇祖は天照大神とされ、饒速日が天孫・皇孫ではなく天神とされたので、後世の物部氏(先代旧事本紀の編纂者)が饒速日命は天孫・皇孫であることを主張するために、饒速日を天照大神の孫として記した。

 記紀編纂の作業をしていた7世紀終わりの大和朝廷は41代持統天皇と藤原不比等の時代である。その記紀において、素戔嗚は高天原から追放され、天津神から国津神に落とされてしまった。饒速日(布留、大歳)は素戔嗚の子であるので天神とされ、新撰姓氏録でも天神とされた。

 9世紀後半に物部系により編纂されたと考えられる先代旧事本紀は記紀などの記録に合わせながら、それとなく修正・改定する意味合いを含んでいるようである。
 同じように807年に編纂された古語拾遺も斎部広成が忌部氏(斎部氏)の正当性を訴える要素を含んでいる。物部氏もこれに倣ったか。

 古事記では天火明は天孫・天忍穂耳の子と記しているが、先代旧事本紀は天火明と饒速日の名前を繋いで一神の名とし、天照国照彦天火明櫛玉饒速日が天忍穂耳の子と記した。饒速日は天孫であると主張するための細工だと考えられる。
 先代旧事本紀は大歳(饒速日の実名)は素戔嗚の子と記している。
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 私見による系図は次の図です。
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 出雲国風土記には神須佐乃烏命の子が大歳神と記されている。
 多くの古代史研究者が素戔嗚、饒速日は7世紀末の大和朝廷によって抹殺された覇王であると主張している。大和朝廷は天照大神が皇祖で、持統天皇(和風諡号は高天原広野姫天皇)はその再来であると主張した。

 私見ですが、皇室の基盤を築いたのは素戔嗚を始め出雲族であり、素戔嗚が亡くなった西暦200年頃に後継者の大国主が高皇産霊から国譲りを強制された。

 饒速日(大歳)は性格が素戔嗚によく似ているところから、素戔嗚が最も信頼した息子である。素戔嗚は河内国や大和国の統治を若い饒速日(大歳)に託した。饒速日は瀬戸内の制海権を確保するための拠点を讃岐(香川県)と播磨(兵庫県)に置いた。兵庫県には大歳神を祀る神社が390社近くも鎮座している。これは大歳(饒速日)の神徳が大きかった証しです。
 
 瀬戸内海地方は降雨量が少ないので、大歳は讃岐国や播磨国で水田稲作や畑作のために溜め池を造るように指導した。だから兵庫県は溜め池が圧倒的に多く、日本で一番多い。二番目が広島県で、香川県は三番目に多い。
 その灌漑用の溜め池が本来の用途以外にも使われている。池に太陽光パネルが新設され始めた。溜め池が多いから、これからの増設が期待される。これも大歳神の御神徳でしょう。

 饒速日は西暦185年頃に東遷し、北部九州から大部隊で河内国と大和国へやってきたので大きな争いは起きなかったでしょう。東遷に従った人々の名は先代旧事本紀に載っているが、遠賀川と筑後川沿岸部の物部族と共に、安曇・海部・尾張・鴨・対馬・壱岐などの海人族、高皇産霊の子や孫も従っている。25軍団というから膨大な人数だった。
 東遷の目的は列島統一だと考えられるが、西暦180年代に勃発する大陸の戦乱と倭国大乱が東遷のきっかけになったのでしょう。大陸と近い筑紫(北部九州)ではなく、河内国・大和国を政治・経済・文化の中心地に選んだと考えられる。全国から波状的に人々が集まり人口が増え、大きな市も開かれ大発展していった。

 大和国の中心地は長髄彦(ながすねひこ)の唐古・鍵(磯城郡田原本町)であったが、饒速日は5km南東の纏向(桜井市)を都とした。この頃に不定形の纏向型前方後円墳が造られるが、3世紀後半の崇神天皇の時に定型的前方後円墳の箸墓古墳が完成して弥生時代から古墳時代に入っていく。
 纏向には10代崇神天皇、11代垂仁天皇、12代景行天皇が宮を設ける。景行天皇が崩御する西暦350年頃に纏向は急速に衰える。

 饒速日は近畿地方だけでなく、東国(中部地方)・関東・北陸・東北まで開発を進めていく。その実行者の一人は天香語山(彦火火出見、155年頃出生)で、東国から北陸へと開拓を進め、越国の弥彦神社(やひこじんじゃ、いやひこじんじゃ、越後国一宮、新潟県西蒲原郡弥彦村)に祀られている。神社後方にある神体山の弥彦山頂に鎮座の「奥の宮」が天香語山と妻の熟穂屋姫(うましほやひめ)の神廟となっている。

 秋田県大仙市協和鏡下台の唐松神社に秋田物部文書と有名な饒速日肖像画がある。
 秋田物部文書によると、物部守屋が587年に蘇我氏によって滅ぼされたので、守屋の子・那加世(なかよ、3才)は物部家の家臣捕鳥男速(とっとりのおはや)に抱かれて東方に逃げ延び、秋田仙北郡(現、大仙市協和)の日殿山に入り「日の宮」(祭神は饒速日命)の神官になった。
 そして年を経て、その那加世の末裔が秋田の唐松林(大仙市協和町上淀川)に定住した。現在の唐松神社宮司家物部氏は、この那加世を初代として現在まで60代以上続いている。
 物部家では、代々の当主がこの文書を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきたが、1984年に名誉宮司の物部長照氏がその一部を公表、しかし大部分は未公開のままである。
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by enki-eden | 2015-07-23 00:31