2015年 07月 26日
平原(ひらばる)王墓の埋葬方向
福岡県糸島市有田の平原遺跡1号墓(平原王墓)の埋葬方向は、東方の日向峠(ひなたとうげ、246m)に向いている。
倭王を兼務する奴国の王族が山を西に越えた伊都国に墳墓を造る。そして竹内峠が二上山の南にあるように、日向峠は高祖山の南にある。
平原王墓、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などは伊都国王族の墳墓と見られているが、奴国王族の墳墓であれば、竹内峠と日向峠は条件がよく似ています。
三雲南小路遺跡の被葬者は天孫瓊瓊杵と妃の木花開耶姫という説がある。遺跡の90m東に細石神社(さざれいしじんじゃ)が鎮座。祭神は磐長姫命と木之花開耶姫命の姉妹で、神社は王墓の拝殿とも云われる。
細石神社から見て、夏至の日の朝日は高祖山(416m)から昇ります。夕日は可也山(365m)に沈みます。三雲南小路遺跡と井原鑓溝遺跡からもほぼ同じです。

同じようにして、平原遺跡から見て日向峠から日の出が昇る時期は何時かを調べることができます。
日の出・日の入り
地図上の平原遺跡をクリックし、年月日を入力、「計算」をクリックすると日の出、日の入り時間と方向が示されます。「2014年10月22日」を入力して調べると、日向峠が日の出の方向になります。平原遺跡の時代「200年10月22日」でも同じ結果です。

但し、現在の地軸の傾度は23.4度ですが、4万年の周期で21.5度から24.5度の間で地軸の傾度が動きます。そして2万年の周期で歳差運動(コマの首振り運動)が一周します。
現在は日本の中央部から南十字星はみえませんが、西暦200年には大和国(奈良県)でも南十字星が見えたと云う。
平原遺跡から見て日向峠から朝日が昇るのは現在では10月22日前後ですが、西暦200年から250年ではもう少し時期が遅かったでしょう。いづれにしても、この埋葬方法は太陽信仰と密接に繋がっています。被葬者については卑弥呼、豊玉姫、玉依姫、磐長姫などと云われます。
平原王墓の説明YouTubeをご覧ください。ご当地意識が少し強いですが・・・
YouTube
この王墓から耳璫(じとう、イヤリング)が出土しているので、被葬者は女性(女王)とされる。築造時期は200年から250年の間と考えられ、弥生時代末期(卑弥呼の時代)の伊都国にある王墓です。
豪華な副葬品からすると、この被葬者は女王か祭祀長(巫女)だったのでしょう。東方の日向峠に脚を向けて埋葬されていたので、日向峠から昇る朝日の光が股間に射して太陽と交合するイメージです。
王墓の形状は14m×12mの四隅が丸い長方形の方形周溝墓で、中央に木棺が埋葬されていた。副葬品は銅鏡40枚、素環頭鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数。銅鏡の中に直径46.5cmの内行花文鏡が5枚あり、日本最大の銅鏡で八咫鏡と同じではないかと云われている。
女王や巫女はこの大きな鏡を毎朝太陽に向けて祈っていたのでしょう。重さは約8kgもある。


2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。
大和国では西暦200年前後に100m程の長さの纏向型前方後円墳が築造されているので、副葬品は伊都国の方が圧倒的に立派ですが、墳墓の規模は大和国が圧倒しています。
そして、日向峠の立地は、大阪府南河内郡太子町の磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)から山道を通って奈良県葛城市へ通じる竹内街道(日本初の官道)の竹内峠(310m、二上山の南)に似ていると感じます。
磯長谷古墳群にある皇族の陵墓は敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵、聖徳太子廟などです。大和国に住む皇族が山を西に越えた河内国に陵墓を造る。
豪華な副葬品からすると、この被葬者は女王か祭祀長(巫女)だったのでしょう。東方の日向峠に脚を向けて埋葬されていたので、日向峠から昇る朝日の光が股間に射して太陽と交合するイメージです。
王墓の形状は14m×12mの四隅が丸い長方形の方形周溝墓で、中央に木棺が埋葬されていた。副葬品は銅鏡40枚、素環頭鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数。銅鏡の中に直径46.5cmの内行花文鏡が5枚あり、日本最大の銅鏡で八咫鏡と同じではないかと云われている。
女王や巫女はこの大きな鏡を毎朝太陽に向けて祈っていたのでしょう。重さは約8kgもある。


2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。
大和国では西暦200年前後に100m程の長さの纏向型前方後円墳が築造されているので、副葬品は伊都国の方が圧倒的に立派ですが、墳墓の規模は大和国が圧倒しています。
そして、日向峠の立地は、大阪府南河内郡太子町の磯長谷古墳群(しながだにこふんぐん)から山道を通って奈良県葛城市へ通じる竹内街道(日本初の官道)の竹内峠(310m、二上山の南)に似ていると感じます。
磯長谷古墳群にある皇族の陵墓は敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵、聖徳太子廟などです。大和国に住む皇族が山を西に越えた河内国に陵墓を造る。
倭王を兼務する奴国の王族が山を西に越えた伊都国に墳墓を造る。そして竹内峠が二上山の南にあるように、日向峠は高祖山の南にある。
平原王墓、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などは伊都国王族の墳墓と見られているが、奴国王族の墳墓であれば、竹内峠と日向峠は条件がよく似ています。
三雲南小路遺跡の被葬者は天孫瓊瓊杵と妃の木花開耶姫という説がある。遺跡の90m東に細石神社(さざれいしじんじゃ)が鎮座。祭神は磐長姫命と木之花開耶姫命の姉妹で、神社は王墓の拝殿とも云われる。
細石神社から見て、夏至の日の朝日は高祖山(416m)から昇ります。夕日は可也山(365m)に沈みます。三雲南小路遺跡と井原鑓溝遺跡からもほぼ同じです。

同じようにして、平原遺跡から見て日向峠から日の出が昇る時期は何時かを調べることができます。
日の出・日の入り
地図上の平原遺跡をクリックし、年月日を入力、「計算」をクリックすると日の出、日の入り時間と方向が示されます。「2014年10月22日」を入力して調べると、日向峠が日の出の方向になります。平原遺跡の時代「200年10月22日」でも同じ結果です。

但し、現在の地軸の傾度は23.4度ですが、4万年の周期で21.5度から24.5度の間で地軸の傾度が動きます。そして2万年の周期で歳差運動(コマの首振り運動)が一周します。
現在は日本の中央部から南十字星はみえませんが、西暦200年には大和国(奈良県)でも南十字星が見えたと云う。
平原遺跡から見て日向峠から朝日が昇るのは現在では10月22日前後ですが、西暦200年から250年ではもう少し時期が遅かったでしょう。いづれにしても、この埋葬方法は太陽信仰と密接に繋がっています。被葬者については卑弥呼、豊玉姫、玉依姫、磐長姫などと云われます。
平原王墓の説明YouTubeをご覧ください。ご当地意識が少し強いですが・・・
YouTube
by enki-eden
| 2015-07-26 00:08

