古代史探訪

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銅鐸から前方後円墳へ

 弥生時代の紀元前200年頃から紀元200年頃までの400年ほどの間、銅鐸祭祀が出雲を中心として全国に広がっていった。
   兵庫県立考古博物館の展示
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 出雲族が銅鐸祭祀の中心にいたが、紀元200年頃に銅鐸が各地で埋納されて消えてしまった。

 2世紀終わりの倭国大乱に引き続き、西暦200年頃に素戔嗚が亡くなると、大国主(出雲族)は天照大神と高皇産霊に諸国の支配権を奪われ(出雲の国譲り)、銅鐸祭祀も禁止された。
 大和には神武(181年~248年頃)が派遣され、大和を治めていた出雲系の饒速日(165年頃~225年頃)は国譲りに従うことになる。
 歴史と神話を混ぜるなとおっしゃる方々にはご容赦願いますね。

 出雲の神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡から銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個が出土し、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡からは銅鐸39個が出土し、総重量は350kgもある。
 その出土物の中で、12個の銅鐸の吊り手中央部と344本の銅剣の根元には、埋納前にタガネの様な工具で刻んだ×印がついている。
 この×印は製作時の模様ではなく、製作後にタガネなどで刻んでいるので、埋納が出雲国譲り(西暦200年頃)以降であるならば、銅鐸等を埋める時に付けた怨念の印かもしれない。
 紀元前の前期に製作された小型の銅鐸は大型銅鐸に替えるために、全国的に紀元前後に埋納されている。

 その後、3世紀後半の10代祟神天皇の時代になり、全長280mの定型形前方後円墳である箸墓古墳が大和の纏向(まきむく)に築造され、弥生時代が終わり古墳時代に移っていく。
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 6月14日投稿の「弥生人のルーツ」でも記述しましたが、
 『長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が多く、開口部を上にして埋められた。
 長江中流域から出現した「楚」はこの風習をもっている。山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だったことがある。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。

 日本の銅鐸は弥生時代のBC3世紀から紀元3世紀まで祭祀に使用され、弥生時代末期に消滅した。銅鐸は丘の傾斜地の浅い所に埋納されている。
 この銅鐸と銅鐃の共通性から判断すると、弥生人の中でも楚人が銅鐸を全国に広めて祭祀に使った可能性が高い。楚人の代表は出雲系の素戔嗚(西暦140年頃~200年頃)で、銅鐸祭祀の末期に活躍した。

 銅鐸祭祀が消えたのは、西暦200年頃の「素戔嗚の死」と「出雲の国譲り」が関係していると考えられる。楚人は強くて文化程度も高かったが、Y染色体ハプログループの分析によると、列島での楚人(O1a)の人口比は3%強で人数が少なかった。越人(O2a)は1%強で最も少なく、呉人(O2b)は33%ほどもあり大勢力であった。呉人は奴国の中心勢力だと考えられる。晋書、梁書などに「倭は自ら呉の太伯の後という」とある。
 3世紀後半になると、銅鐸に替わって三種の神器が祭祀に使われ、弥生時代から古墳時代に突入、三種の神器は現代の皇室にまで連綿と継承されている。』

 銅鐸が埋納されて消滅したことと、その50年から60年後に定型形前方後円墳が出現したこととは密接に関係があるのではないか。

 前方後円墳は全国の豪族の支持と協力を受けて広まっていったが、出雲族の物部氏がその政策の中心であった。崇神天皇は物部氏と結託して全国制覇を目指し、中央集権国家の基盤を造ったのである。
 物部氏は弥生時代の祭祀の象徴である銅鐸の形を前方後円墳の形に留めながら、新しい古墳時代を築いていった。弥生墳丘墓である纏向型前方後円墳を上手く改良して、銅鐸の形を定型形前方後円墳に再現した。
  銅鐸と前方後円墳を並べると、共通性が理解できるのでは?
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 祟神天皇は物部氏と密接に繋がり、各豪族とも連携して全国を制覇する。この時代に文化・宗教や国の形が大きく変遷していった原因は、臺與(とよ、235年頃~295年頃)と祟神天皇(250年頃~318年)が全国制覇のために、270年頃に筑紫から大和へやってきたからだと私は考えています。
 臺與は朝廷の祭祀長、巫女を務め、纏向の大型神殿で神託を預言した。
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 崇神天皇は9代開化天皇(250年頃~303年頃)の養子になり皇太子となったと考えられる。崇神が10代天皇になると、宮殿に天照大神を祀ったために諸豪族と争いになったので、宮殿内で祀るのを止めざるを得なかった。

 記紀には女王(臺與)の東遷記述はないし、祟神天皇は最初から大和にいたとしているが、銅鐸の消滅の後、50年か60年経って崇神天皇の時代に前方後円墳と筑紫の三種の神器が全国に広がっていく。特にこの時期の銅鏡は三角縁神獣鏡が大量に流通し、これまでに500枚以上が出土している。
 そして、587年に物部守屋が蘇我氏に滅ぼされると、前方後円墳の築造は終わり、古墳時代から飛鳥時代に入っていく。
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by enki-eden | 2015-08-31 00:36