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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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伊弉諾尊(いざなぎ)後の倭国

 西暦107年に奴国王・帥升が後漢に朝貢し、生口(奴隷)160人を献じ、帥升は倭国王として認められた。これにより、それまでの奴国王は「後漢との交易面で」倭国の諸国代表であったが、帥升以降の奴国王は交易面以外に政治的にも倭国の盟主となり、奴国王兼倭国王となった。倭国とは北部九州の29ヶ国である。
 29ヶ国は三国志によると、対馬国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国である。
 三国志には上記以外に邪馬台国と紛争のある狗奴国が記されている

 伊弉諾は西暦125年頃出生の倭王兼7代目奴国王であった。しかし、中国後漢末期の184年に太平道の張角が「黄巾の乱」を起こした。これが引き金になって全国で戦乱・反乱が広がり、後漢の衰退を招いた。
 後漢が紛争続きで倭国は後漢との交易ができなくなり、後漢を後ろ盾にしていた奴国王兼倭王の伊弉諾の信用は失墜、倭国乱が勃発、伊弉諾は淡路島に隠遁して亡くなった。(伊弉諾神宮)

 高皇産霊は185年頃に饒速日(165年頃-225年頃)を大和国に東遷させ、大和国と東海地方を開発させた。高皇産霊の子も多く従わせた膨大な部隊であった。高皇産霊(140年頃-205年頃)は紀元前1世紀に活躍した別天神(ことあまつかみ)の高皇産霊神とは同名異神で、時代は200年近く離れています。

 倭国の実力者である素戔嗚が200年頃に亡くなると、素戔嗚の末娘・須世理姫の婿の大国主(160年頃-220年頃)が素戔嗚の後継者となる。
 この時、高皇産霊は大国主(葦原醜男、あしはらのしこお)に出雲(北部九州の出雲族支配地=葦原中津国)を明け渡すよう強制、大国主は出雲国(島根県)に隠遁した。この後、出雲族を中心に400年ほど続いてきた銅鐸祭祀が消滅し、銅鐸は埋納される。8月31日投稿の「銅鐸から前方後円墳へ」をご参照ください。

 そして201年に奴国王族の卑弥呼(179年-247年)が倭国の女王となり、紛争は収まった。高皇産霊は国譲りを全国に広めるために、204年頃に磐余彦(神武、181年-248年)を出発させ、大和国に向かわせた。

 大陸では、2世紀後半に後漢の地方官(遼東太守)だった公孫度(204年没)が黄巾の乱などの戦乱に乗じて、189年に遼東地方を後漢から独立させた。楽浪郡も配下に治め、公孫度の子の公孫康が204年に帯方郡を設置、韓や倭を勢力下に置いたとされる。ここで云う倭は列島ではなく朝鮮半島南部の倭人(呉人)の国の伽耶(任那)かもしれない。
 公孫氏が遼東・楽浪・帯方を領し、後漢と対立していたので、卑弥呼は後漢とは交易できず公孫氏と交易していた。この時に卑弥呼は帯方郡に使節を派遣して中国語と漢字を学ばせたのでしょう。その中に難升米や掖邪狗などもいたかもしれない。
 
 後漢が220年に滅亡、魏が華北の支配権を握るが公孫淵(238年没)は236年に燕王を称し、近隣国に印璽(いんじ)を与えた。倭国も銘文入りの剣を受けた。2012年12月23日投稿の「和邇氏と東大寺山古墳」をご参照ください。
 魏と燕は対戦し、238年に魏の司馬懿(しばい、179年-251年)が公孫氏を滅ぼした。卑弥呼は239年に魏に朝貢し、親魏倭王印を受ける。考古学者の故・森浩一先生(1928年-2013年)によると、国名や人名は倭人側が書いて魏の役人に渡した。
 新撰姓氏録によると、常世連(とこよのむらじ)は公孫淵の末裔と記されている。

 卑弥呼は247年に亡くなるが、翌年に臺與(235年頃-295年頃)が跡を継ぎ女王となる。
 魏が265年に滅び晋が起こると、倭国女王の臺與が266年に晋に朝貢するが、その後、晋も安定せず内乱が続き、北方異民族の侵入もあり倭国と交易できなくなった。
 270年頃には女王の臺與が崇神を連れて大和国に東遷し物部氏と結託して、崇神天皇(250年頃-318年)に全国支配を急がせたと考えられる。
 私見ですが、その当時の系図です。図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。
伊弉諾尊(いざなぎ)後の倭国_d0287413_13154730.jpg


 初代神武天皇(211年に大和国橿原で即位)から9代開化天皇(255年頃-293年頃)の80年間ほどで近畿地区の統括と大和朝廷の基礎造りができた。
 全国支配(国譲り)がほぼ完成したのは14代仲哀天皇(320年頃-362年)の360年頃であった。200年頃の出雲の国譲りから160年ほどが経っていた。
 全国を治める中央集権体制ができると次は海外派兵となり、362年に神功皇后(321年-389年)が新羅に遠征するまでに成長していった。その後も神功皇后は367年に千熊長彦、369年に荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)、382年に葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を派遣して新羅へ遠征させることになる。
 5月21日投稿の「奴国から倭国へ」と8月24日投稿の「日本書紀の神武天皇年」をご参照ください。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp

by enki-eden | 2015-11-01 00:10