古代史探訪

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15代応神天皇

 応神天皇の生没年については過去に何度も述べており、2013年2月21日投稿の「応神天皇」では、363年頃出生、404年頃崩御としています。
 その後は362年出生、403年崩御(41才)と修正し、「何年頃」を改め年度をはっきり確定しました。ここで日本書紀と古事記をもう一度読み直し確認してみます。

 古事記によると14代仲哀天皇が壬戌年(362年)6月11日に崩御。日本書紀では2月に崩御、神功皇后が冬10月3日に鰐浦(対馬市上対馬町鰐浦、対馬の北端)から出発し新羅を討った。
 神功皇后は新羅から帰還し、その年の12月14日に皇子(応神天皇)が生まれた。つまり362年2月か6月に仲哀天皇が崩御、神功皇后が10月に新羅遠征、帰還後12月に皇子(応神天皇)を出産。

 神功皇后は翌年(363年)に摂政となり、誉田別皇子(ほむたわけのみこ、応神天皇)は神功皇后摂政3年(365年)に皇太子として立太子する(数え年4才)。ところが日本書紀は「時に年3才」と記す。
 4才ではなく3才と記すのは、皇子(15代応神天皇)の父を14代仲哀天皇にするために新羅遠征と皇子出生を362年の冬に繰り上げたことを暗示する。
 実際には翌年の363年春に新羅に遠征、帰還後に皇子が生まれた。日本書紀は応神天皇生誕の公式記録は362年とし、事実を伝えるために「時に年3才」の記事を挿入した。
 気象条件から考えても冬の外海渡航は危険。従って、今後は神功皇后新羅遠征と応神天皇出生年は363年と改めます。

 神功皇后は己丑年(389年)に崩御、応神天皇は翌年の庚寅年(390年)に即位。
 応神2年(391年)に仲姫を皇后とした。
 応神3年(392年)に百済の辰斯王が礼を失することをしたので、紀角宿禰などを遣わせて責めると、百済は辰斯王を殺したので、紀角宿禰らは阿花(あくえ)を王とした。

 応神5年(394年)、諸国に海人部、山守部を定めた。伊豆国に船を造らせた。長さ10丈で速かったので枯野(からの)といった。
 応神6年(395年)、近江国に行幸。
 応神7年(396年)、高麗人、百済人、任那人、新羅人らが来朝。
 応神8年(397年)、百済人が来朝。

 応神9年(398年)、武内宿禰に筑紫を監察させたが、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)に讒言された。
 応神11年(400年)、剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池を造った。
 応神13年(402年)、諸県君牛諸井の娘・日向髪長媛を大鷦鷯尊(16代仁徳天皇)に賜る。
 応神14年(403年)、百済王が縫衣工女(きぬぬいおみな)を奉った。真毛津(まけつ)といって来目衣縫(くめのきぬぬい)の先祖である。
 弓月君が渡来した。秦氏の先祖である。

 403年に応神天皇は崩御するが、記事は更に続く。仁徳天皇の時代のことです。
 応神15年(404年)、百済王は阿直岐(あちき)を遣わせて良馬二匹を奉る。阿直岐史の先祖である。
 応神16年(405年)、百済から王仁(わに)が来て、応神天皇の太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師とした。王仁は書首(ふみのおびと)らの祖である。
 百済の阿花王が薨じた。阿花王の長子(390年-420年)を人質として大和に住まわせていたが、国に帰らせ直支王(ときおう)とした。
 平群木菟(へぐりのつく)宿禰らを新羅に派遣し、弓月の民を率いて葛城襲津彦と共に帰ってきた。

 応神20年(409年)、倭漢直(やまとのあやのあたい)の先祖である阿知使主(あちのおみ)が多くの民を連れて渡来した。
 応神25年(414年)、百済の直支王(ときおう)が薨じ、子の久爾辛(くにしん)が王となった。これは実際には420年のことだから年代が間違っている。

 ここからは再び応神天皇の時代の記事に戻る。年代はこれまでの在位年ではなく、天皇の数え年の年令を表している。
 応神37年(応神天皇満36才、西暦399年)、呉(くれ)から縫女(ぬいめ)を4人求めた。
 応神39年(満38才、401年)、百済の直支王(ときおう)の妹・新斉都媛(しせつひめ)を遣わせて仕えさせた。
 応神40年(満39才、402年)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と大鷦鷯尊(おおさざき、16代仁徳天皇)に国事を任せた。
 応神41年(満40才、403年)、軽嶋の豊明宮で崩御、110才。
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 応神天皇とは関係ありませんが、ソプラノオペラ歌手の森麻季さんの歌を聴いてください。
「さくら」です。
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by enki-eden | 2016-04-15 00:20