2016年 05月 31日
殉葬
古代メソポタミアやエジプト、古代中国、古代日本などにおいて殉葬が行われた。
考古学的には日本国内の殉葬を確認できないが、文献資料に殉葬が記されている。三国志魏志倭人伝に、邪馬台国の女王卑弥呼(179年-247年)が亡くなり、大きな塚を築いて100人の奴婢が殉葬されたと記されている。
10代崇神天皇(255年頃-318年頃)の皇子・倭日子(11代垂仁天皇の弟)の陵墓について、古事記は倭日子命の葬送時に「初めて陵に人垣を立てたり」とあります。人垣とは人を埋めて垣とすることで、殉葬のことです。
北部九州の倭国や西海の吉備国では古くから行われていた殉葬が大和国ではこれが初めてだったのでしょうか。倭日子より前の箸墓古墳に殉葬があったと考えられますが・・・
倭日子命(倭彦命)の陵墓については2014年5月18日投稿の「桝山古墳と新沢千塚古墳群」をご覧ください。
280年頃に築造が完成した箸墓古墳には、10年間で延べ120万人を超える労役が使われたと考えられます。吉備国で出土する弥生時代後期の特殊な土器や円筒埴輪の破片が箸墓古墳から3,000点以上も発見されている。
吉備国の墓制の影響を受け、定形的な前方後円墳である箸墓古墳が築造され古墳時代に入っていった。この箸墓古墳を築造したときに殉葬も取り入れられたのでしょう。
10代崇神天皇は吉備国の鉄製品と踏鞴製鉄の技術を獲得するために、吉備津彦を西海将軍として吉備国に派遣して制圧した。
平原遺跡の発掘で有名な考古学者の原田大六氏(1917年-1985年)は、円筒形器台は首長墓に立てた殉葬用の棺で、底なし壷を載せた円筒形器台が吉備国で発生し、殉死者の樹立棺として姿を見せた。箸墓古墳にはその殉死者樹立棺が発見されていると述べられている。
2015年7月26日投稿の「平原王墓の埋葬方向」をご参照ください。
日本書紀の11代垂仁天皇(270年頃-330年頃)の記事には、野見宿禰が陵墓に生きた人を埋める替わりに土で作った人や馬などを立てることを提案して認められたとあります。
また、15代応神天皇(363年-403年頃)の4世紀末から5世紀にかけて多くの渡来人がやって来て、彼らの墓の周りに馬が殉葬されることがあった。
日本書記によると、大化2年(646年)に墓制を細かく制度化して厚葬にならないように規制、人や馬の殉死の禁止、宝物の埋葬を禁止した。垂仁天皇の4世紀に禁止された殉葬が7世紀になっても禁止しなければならないのは、まだ殉葬が残っていたからでしょう。
陵墓築造時の殉葬だけではなく、大規模土木工事の時にも人柱(生贄)が立てられた。播磨国で大きな溜池を造る時にも若い女性が人柱として犠牲になった。
日本武尊が海上を関東・東北へ遠征した時に嵐で遭難しそうになったので、同行していた妃・弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に飛び込み犠牲(生贄)となって嵐を鎮めた。
千葉県(橘樹神社)や神奈川県(走水神社)には弟橘媛を祀る神社が多い。
15世紀から16世紀のメキシコのアステカ帝国では人身御供(生贄)の神事が頻繁に行われた。
日本の中世においても主君が亡くなった時に家来の殉死は続いたが、現代においても明治天皇(1852年-1912年)崩御の後に陸軍大将の乃木希典(1849年-1912年)と妻静子が殉死、昭和天皇(1901年-1989年)崩御の後にも殉死者があったようです。
考古学的には日本国内の殉葬を確認できないが、文献資料に殉葬が記されている。三国志魏志倭人伝に、邪馬台国の女王卑弥呼(179年-247年)が亡くなり、大きな塚を築いて100人の奴婢が殉葬されたと記されている。
10代崇神天皇(255年頃-318年頃)の皇子・倭日子(11代垂仁天皇の弟)の陵墓について、古事記は倭日子命の葬送時に「初めて陵に人垣を立てたり」とあります。人垣とは人を埋めて垣とすることで、殉葬のことです。
北部九州の倭国や西海の吉備国では古くから行われていた殉葬が大和国ではこれが初めてだったのでしょうか。倭日子より前の箸墓古墳に殉葬があったと考えられますが・・・
倭日子命(倭彦命)の陵墓については2014年5月18日投稿の「桝山古墳と新沢千塚古墳群」をご覧ください。
280年頃に築造が完成した箸墓古墳には、10年間で延べ120万人を超える労役が使われたと考えられます。吉備国で出土する弥生時代後期の特殊な土器や円筒埴輪の破片が箸墓古墳から3,000点以上も発見されている。
吉備国の墓制の影響を受け、定形的な前方後円墳である箸墓古墳が築造され古墳時代に入っていった。この箸墓古墳を築造したときに殉葬も取り入れられたのでしょう。
10代崇神天皇は吉備国の鉄製品と踏鞴製鉄の技術を獲得するために、吉備津彦を西海将軍として吉備国に派遣して制圧した。
平原遺跡の発掘で有名な考古学者の原田大六氏(1917年-1985年)は、円筒形器台は首長墓に立てた殉葬用の棺で、底なし壷を載せた円筒形器台が吉備国で発生し、殉死者の樹立棺として姿を見せた。箸墓古墳にはその殉死者樹立棺が発見されていると述べられている。
2015年7月26日投稿の「平原王墓の埋葬方向」をご参照ください。
日本書紀の11代垂仁天皇(270年頃-330年頃)の記事には、野見宿禰が陵墓に生きた人を埋める替わりに土で作った人や馬などを立てることを提案して認められたとあります。
また、15代応神天皇(363年-403年頃)の4世紀末から5世紀にかけて多くの渡来人がやって来て、彼らの墓の周りに馬が殉葬されることがあった。
日本書記によると、大化2年(646年)に墓制を細かく制度化して厚葬にならないように規制、人や馬の殉死の禁止、宝物の埋葬を禁止した。垂仁天皇の4世紀に禁止された殉葬が7世紀になっても禁止しなければならないのは、まだ殉葬が残っていたからでしょう。
陵墓築造時の殉葬だけではなく、大規模土木工事の時にも人柱(生贄)が立てられた。播磨国で大きな溜池を造る時にも若い女性が人柱として犠牲になった。
日本武尊が海上を関東・東北へ遠征した時に嵐で遭難しそうになったので、同行していた妃・弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に飛び込み犠牲(生贄)となって嵐を鎮めた。
千葉県(橘樹神社)や神奈川県(走水神社)には弟橘媛を祀る神社が多い。
15世紀から16世紀のメキシコのアステカ帝国では人身御供(生贄)の神事が頻繁に行われた。
日本の中世においても主君が亡くなった時に家来の殉死は続いたが、現代においても明治天皇(1852年-1912年)崩御の後に陸軍大将の乃木希典(1849年-1912年)と妻静子が殉死、昭和天皇(1901年-1989年)崩御の後にも殉死者があったようです。
by enki-eden
| 2016-05-31 00:13