2016年 06月 07日
山氏神社(やまうじじんじゃ、兵庫県加東市)
兵庫県加東市社(やしろ)772
駐車スペースはありそうですが車を佐保神社に停めました。
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)、
大山祇命(おおやまづみのみこと)、
霊神(みたまのかみ)。
地元では「やもりさん」、佐保神社のすぐ東に鎮座しており、社殿は西向きです。山氏神社は佐保神社の境外末社のようですが、昔は佐保神社の境内がもっと広く境内末社だったかもしれない。
11代垂仁天皇の時代(4世紀前半)に大山祇命を奉斎、14代仲哀天皇の時代(4世紀半ば)に日本武尊を奉斎、鎌倉時代の1207年に当地開発の祖である源頼道を霊神(みたまのかみ)として合祀した。
1,300年前に提出された播磨国風土記には、製鉄、石棺用材の竜山石、古代船速鳥(はやとり、飛ぶように速かった)の造船など、古代の産業についても記されている。
758年の奈良時代に遣唐使船を造った時、船名を「播磨」と「速鳥(はやとり)にした。船名に「丸」を付けるようになるのは平安時代から始まったようです。
これらの生産の主体は山直(やまのあたい)、石作連(いしつくりのむらじ)、船木連(ふなきのむらじ)など、播磨の豪族が関わっている。
山直(やまのあたい)は播磨各地で「山を管理し、樹木を伐採、山の傾斜を利用して窯を造り須恵器を生産する」ような仕事をしていたのではないか。山直の本拠地は播磨国賀茂郡で息長命が祖神だから息長氏の一族だと考えられる
賀茂郡は賀茂氏との関係がないように見えるので、賀茂郡の地名由来はたくさん生息している「鴨」なのかもしれない。
播磨国は須恵器を朝廷に納めることが義務付けられていた。加古川市志方町(しかたちょう)大沢字投松(なげまつ)の投松1号窯出土の須恵器(9世紀)に「山直川継(やまのあたいかわつぐ)」名がある。
加古川市志方町で生産された須恵器は特に優れていたようです。
参道
拝殿と手水舎
「九郎判官源義経公御手植の松」、源義経(1159年-1189年)が植えた松ですが、この松は何代目でしょうね。1184年に源平の三草山合戦(加東市上三草)で勝利した義経が今後の勝利を祈願して松を植えたという伝承がある。
針間鴨国(後の播磨国賀茂郡)は源氏とつながりが深い。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp
駐車スペースはありそうですが車を佐保神社に停めました。
祭神 日本武尊(やまとたけるのみこと)、
大山祇命(おおやまづみのみこと)、
霊神(みたまのかみ)。
地元では「やもりさん」、佐保神社のすぐ東に鎮座しており、社殿は西向きです。山氏神社は佐保神社の境外末社のようですが、昔は佐保神社の境内がもっと広く境内末社だったかもしれない。
11代垂仁天皇の時代(4世紀前半)に大山祇命を奉斎、14代仲哀天皇の時代(4世紀半ば)に日本武尊を奉斎、鎌倉時代の1207年に当地開発の祖である源頼道を霊神(みたまのかみ)として合祀した。
1,300年前に提出された播磨国風土記には、製鉄、石棺用材の竜山石、古代船速鳥(はやとり、飛ぶように速かった)の造船など、古代の産業についても記されている。
758年の奈良時代に遣唐使船を造った時、船名を「播磨」と「速鳥(はやとり)にした。船名に「丸」を付けるようになるのは平安時代から始まったようです。
これらの生産の主体は山直(やまのあたい)、石作連(いしつくりのむらじ)、船木連(ふなきのむらじ)など、播磨の豪族が関わっている。
山直(やまのあたい)は播磨各地で「山を管理し、樹木を伐採、山の傾斜を利用して窯を造り須恵器を生産する」ような仕事をしていたのではないか。山直の本拠地は播磨国賀茂郡で息長命が祖神だから息長氏の一族だと考えられる
賀茂郡は賀茂氏との関係がないように見えるので、賀茂郡の地名由来はたくさん生息している「鴨」なのかもしれない。
播磨国は須恵器を朝廷に納めることが義務付けられていた。加古川市志方町(しかたちょう)大沢字投松(なげまつ)の投松1号窯出土の須恵器(9世紀)に「山直川継(やまのあたいかわつぐ)」名がある。
加古川市志方町で生産された須恵器は特に優れていたようです。
参道
拝殿と手水舎
「九郎判官源義経公御手植の松」、源義経(1159年-1189年)が植えた松ですが、この松は何代目でしょうね。1184年に源平の三草山合戦(加東市上三草)で勝利した義経が今後の勝利を祈願して松を植えたという伝承がある。
針間鴨国(後の播磨国賀茂郡)は源氏とつながりが深い。
by enki-eden
| 2016-06-07 05:25