古代史探訪

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大穴持命(おおあなもちのみこと)

 風土記は朝廷から派遣された各国の国司が編纂責任者となるが、出雲国だけは地元の豪族の出雲国造出雲臣広島(いづものおみひろしま)が責任者となっている。現在まで残っている風土記は常陸、播磨、出雲、豊後、肥前の5ヵ国で、出雲国風土記が完本に近い。
 その出雲国風土記(733年頃完成)によると、国引き神話の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ)の子は赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかふすまいぬおおすみひこさわけ)と大穴持命(おおあなもち)である。

 大穴持命(所造天下大神、あめのしたつくらししおおかみ)は須久奈比古命と共に力を合わせて国を造った。大穴持命は出雲で最も崇敬されている神で、全国にも大穴持命(大己貴命、おおなむち)を祀る神社が多い。
 大穴持命は神須佐乃烏命の末娘である和加須世理比売命(わかすせりひめ)に通い妻とする。その姉の八野若日売命(やのわかひめ)にも妻問いする。
 神魂命(かみむすび、神産巣日命、出雲の祖神)の娘の綾門日女命(あやとひめ)に妻問いしたが断られ、妹の真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ)に毎朝のように通った。

 大穴持命の子は、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)、山代日子命、御穂須須美命(建御名方、母は奴奈宜波比売命、新潟県糸魚川市)、和加布都努志命(わかふつぬし)、阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめ、母は宗像の多紀理比売)などがいる。

 記紀に登場する大国主命は大穴持命(大己貴命)と同神とされる。大国主命は高皇産霊尊の派遣した経津主(ふつぬし)と武甕槌(たけみかづち)の武力による強制で出雲国(葦原中津国)を献上し、出雲大社に祀られた。大日霊女貴(おおひるめのむち、天照大神)の第二子である天穂日命が出雲大社の神主になる。天穂日命の子孫に野見宿禰や菅原道真がいる。

 出雲の国譲り
 大国主命(葦原醜男、西暦160年頃-220年頃)は少彦名命と協力して葦原中津国(北部九州の出雲族支配地)を造って治める。日本書紀には列島広範囲の多くの女性との間に181人の子ができたとあるが、政略結婚により多くの国を支配したと考えられる。縁結びの神として有名。

 西暦200年頃に素戔嗚尊が亡くなると、大国主命が後継者となったが、高皇産霊尊(西暦140年頃出生)が武力で葦原中津国を譲るよう強制した。大国主命が国譲りを承諾した後に、高皇産霊尊は自分の娘の三穂津姫を娶らせて大国主命の心を試した。

 出雲国風土記の記事に、「大穴持命が越の八口を平らげて帰還した時に、皇孫への国譲りは出雲国以外を譲るが、八雲立つ出雲国は私の国だから譲らない」と言っている。従って大国主命が譲ったのは北部九州の出雲族支配地(葦原中津国)のことでしょう。
 大国主命の九州での本拠地は宗像(宗像大社)であった。そして素戔嗚尊の死後はその支配地も相続し後継者となった。
 しかし、3世紀後半の古墳時代になると出雲国に限らず全国が10代崇神天皇や11代垂仁天皇に制圧されることになる。4世紀後半の14代仲哀天皇と神功皇后の時代に国内はほぼ鎮圧され、海外派兵へと向かう。

 大国主命には多くの別名があり、大穴持命、大己貴命、所造天下大神のほか、大穴牟遅神、大汝命(播磨国風土記)、八千矛神(やちほこのかみ、武神)、葦原醜男、大物主神(大和国三輪山)、大国魂大神、顕国玉神(うつしくにたまのかみ)、杵築大神(きづきおおかみ)などがある。

 出雲市斐川町神庭西谷の神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき、弥生時代後期)から出土の358本の中細銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛と、島根県大原郡加茂町の加茂岩倉遺跡から出土の39個の銅鐸は八千矛神である大国主命の宝なのか。現在は国宝になっている。

 大国主命は江戸時代の神仏習合では大黒天と同一と見られ、大黒様として信仰された。事代主命の「えべっさん」と共に恵比寿・大黒としても信仰されている。

 大国主命と稲羽の八上姫との間に木俣神(御井神)が生まれる。稲葉の地は「因幡の白兔」で有名な因幡国八上郷(鳥取県)とされているが、福岡県糸島市の志摩稲葉かもしれない。白兔のいた気多崎(けたのさき)は芥屋大門(けやのおおと)かもしれない。

 また、大国主命と神屋楯姫との間に事代主命と高照姫が生まれる。神屋楯姫は宗像の湍津姫(たぎつひめ)と云う説もある。宗像の田心姫(たごりひめ)も湍津姫も大国主命の妃になったのであれば3人目の市杵島姫(いちきしまひめ)も大国主命の妃になったことでしょう。
 しかし、市杵島姫は天火明命の妃になった佐手依姫(狭依毘売)とも云われるし、饒速日の妃とも云われるので古代の夫婦関係は現代よりも複雑です。

 出雲大社の本殿を地図で見てみましょう。黄色の丸が本殿で神座に大国主大神(本殿は南向き、神座は西向き)、赤丸が筑紫社で多紀理姫、ピンク丸が御向社(みむかいのやしろ)で須勢理比売、青丸が天前社(あまさきのやしろ)で支佐加比売(きさかひめ)と宇武加比売(うむかひめ)、本殿後ろの白丸が曽鵞社で素戔嗚尊。
 本殿左右の三社には序列があり、高い方から筑紫社、御向社、天前社の順になっている。
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 8世紀の奈良時代に大伴家持(718年-785年)が中心になって編纂された万葉集には大国主命について六首詠まれているが、そのうちの4首。
   大汝(おほなむち) 少彦名(すくなびこな)の いましけむ
   志都(しづ)の石屋(いはや)は 幾代経ぬらむ
       3-355生石(おいし)村主真人

   大汝 少彦名の 神こそは 名付けそめけめ 名のみを
   名児山と負ひて 我が恋の 千重(ちえ)の一重も 慰めなくに 
                    6-963 大伴坂上郎女

   大汝 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくし良しも
                  7-1247 柿本人麻呂

   八千桙の 神の御代より ともし妻 人知りにけり 継ぎてし思へば
                     10-2002 柿本人麻呂

 「神代の大昔から」と云う表現を「八千鉾の神(大国主命)の御代より」と表現するほどに、大国主命は後の世にも慕われ崇敬されていたのでしょう。
 万葉集にはこのほか、6-1065(田辺福麻呂)と18-4106(長歌、大伴家持)があります。
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by enki-eden | 2016-09-10 00:47