古代史探訪

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阿波国(あわのくに)

 阿波国は現在の徳島県全域で、もとは北部の粟国(あわのくに)を粟国造(粟凡直、あわのおおしのあたい、粟忌部氏)が支配し、南部の長国(ながのくに)を長国造(事代主系の長直)が治めていた。
 律令制により粟国と長国が統一され粟国となり、8世紀初めに好字令が出され「阿波国」に変更、南海道に属し8郡47郷が置かれた。

 古事記によると、阿波国の別名は大宜都比売(おおげつひめ)、伊予国(愛媛県)は愛比売、讃岐国(香川県)は飯依比古(いいよりひこ)、土佐国(高知県)は建依別(たけよりわけ)と云う。
 17世紀の徳島藩蜂須賀氏の時代に、淡路島(淡路国)は阿波国の管轄となったが、1876年に淡路島は兵庫県に編入された。

 阿波国の北部は粟の産地だったから国名が粟になったと云う。天日鷲命(あめのひわしのみこと)が阿波国を開拓して木綿・麻を育て、製糸・紡績を営み、阿波忌部氏の祖となった。
 阿波忌部氏は代々朝廷に木綿・麻布を貢進。荒妙御衣(あらたえのみそ)を貢進して大嘗祭(践祚の儀)に供されたので、麻植郡(おえぐん)という地名になった。
 伊勢神宮でも荒妙(あらたえ、麻織物)、和妙(にぎたえ、絹織物)は織られているが、大嘗祭に使用される荒妙御衣は現代でも古代のしきたり通りに阿波忌部氏、現在は直系子孫の徳島県美馬市木屋平(みましこやだいら)の三木氏が貢進している。

 天太玉命(あめのふとたまのみこと、高皇産霊神の子)の孫の天富命(あめのとみのみこと)が神武東遷(西暦204年出発、211年に即位)に従い、大和国で橿原の宮を造った後、阿波国を開拓した。
 天富命は更に阿波忌部氏の一部を率いて房総半島南端の布良(めら)に上陸、安房国(あわのくに、千葉県南部)を開拓、麻を栽培した。また、安房神社(あわじんじゃ、安房国一宮)を創建、祖神の天太玉命を祀った。
 布良は普通に読むと「ふら」だと思うが、「めら」と読む。北九州市の門司に和布刈神社(めかりじんじゃ)が鎮座、和布刈神事では海岸の「わかめ」を刈って神前に供える。
 布良と和布刈は繋がりがありそうに思うが・・・
 天富命の移動した奈良、徳島、千葉は水銀朱の産地としても知られる。
 当時の朱は金と同等の価値があった。日本書紀によると、神武天皇(181年-248年)が宇田川の朝原で、「飴(水銀)ができれば武器を使わずに天下を居ながらに平げるだろう」と云ったほどである。

 徳島県の銅鐸出土数は大変多く50個近く発見されている。徳島市国府町矢野にある矢野遺跡の集落内で発見された高さ98cm、重さ17.5kgの大型銅鐸(国指定重要文化財)は木製容器に納めて埋められたと考えられている。そして、その上に屋根をかけていた跡(柱穴)が残っている。
 矢野銅鐸(徳島県立埋蔵文化財総合センター)

 徳島県は雨量の少ない瀬戸内海気候のために塩田が盛んであった。木綿の染料である藍の生産も多く、塩と藍は徳島藩の専売品になっていた。

 阿波国の神社を調べてみよう。
 阿波国一宮は天石門別八倉比売神社であったが、論社は複数ある。
 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ、徳島県鳴門市大麻町板東広塚13)、祭神は大麻比古神で、天太玉命(あめのふとたまのみこと、忌部氏の祖神)の別名と云う。徳島県の総鎮守となっている。

 上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ、徳島県名西郡神山町神領字西上角330)、祭神は大宜都比売命(おおげつひめ)、亦の名を天石門別八倉比売命(あめのいわとわけやくらひめのみこと)と云う。
 社伝によると、大宜都比売命が伊勢国丹生の郷(三重県多気郡多気町丹生)から阿波国に来て、粟を広め栽培したと云う。伊勢国も阿波国も水銀朱の産地であった。

 国府の近くに上一宮大粟神社が分祀されて、一宮神社(徳島市一宮町西丁237)が創建された。大宮司家の一宮氏は粟国造の後裔と云う。

 八倉比売神社(やくらひめじんじゃ、徳島市国府町矢野531)が杉尾山に鎮座、一宮を称している。祭神は八倉比売命で、天照大神の別名としている。社殿裏の円墳上に石積みの五角形の祭壇があり、郷土史家は卑弥呼の墓であると云う。

 他にも忌部氏に関わる神社が多い。
 忌部神社(徳島市二軒屋町2-48)、祭神は天日鷲命。

 忌部神社(徳島県吉野川市山川町忌部山14-8)、祭神は天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと、天日鷲命)で江戸時代には天日鷲神社と称した。后神(妃)は言筥女命(いいらめのみこと)。
 神社後方に6世紀頃の忌部山古墳群がある。

 高越神社(徳島県吉野川市山川町木綿麻山4)、祭神は天日鷲命。

 御所神社(徳島県美馬郡つるぎ町貞光)、徳島市二軒屋町の忌部神社境外摂社で祭神は天日鷲命。
 各神社には今後参拝していこうと考えています。

 阿波国風土記
 阿波国風土記写本は明治5年まで徳島藩に保管されていたが、徳島藩は明治5年に廃藩になり、その後は行方知れずになった。
 筑波大学附属図書館に「阿波国風土記」全五冊がある。明治になって徳島藩では阿波国風土記編輯御用掛が組織され、阿波国の地誌の編纂を始めたが、明治5年の廃藩により解散した。

 淡路国風土記逸文は「萬葉集註釈」に見ることができる。天台宗の学問僧で万葉集を註釈した仙覚律師(1203年に常陸国生れ)著であるので「仙覚抄」とも云い、1269年に完成。
 仙覚は万葉集のほか散逸した風土記を引用しているので、風土記逸文の資料としても参考になる。

 萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記に曰はく、奈佐の浦。奈佐と云ふ由は、その浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。」
 (奴国の奴も波のことでしょうかね。奈良の奈も・・・)
 奈佐の場所は徳島県海部郡海部町鞆浦の那佐湾か。播磨国風土記に、17代履中天皇が阿波国の和那散(わなさ)へ行った時にシジミを食べたとある。
 島根県松江市宍道町上来待和名佐に和奈佐神社(祭神は阿波枳閇和奈佐比古命、あわきへわなさひこのみこと)が鎮座しているが、海部氏関連で出雲と阿波は繋がっているようだ。

 萬葉集註釈 巻第七 「阿波国風土記に曰はく、勝間井の冷水(しみず)。此より出づ。勝間井と名づくる故は、昔、倭健(やまとたける)の天皇命(すめらみこと)、乃ち(すなはち)、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れまたひしに依りて、勝間と云ふ。粟人は櫛笥(櫛箱)をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。
 今でも徳島市国府町観音寺に「勝間の井」があり、義経伝説では「舌洗いの池」と云われる。

 萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記の如くは、天(そら)より降り下りたる山の大きなるは、阿波国に降り下りたるを、アマノモト山と云ふ、その山の砕けて大和国に降りつきたるを、天香具山と云ふ。
 これにより郷土史家は阿波国が大和国の本(もと)の国だと主張している。
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by enki-eden | 2016-09-15 00:47