古代史探訪

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饒速日命の墳墓

 先代旧事本紀によると、
 ニギハヤヒの名は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」、または「饒速日命」と云う。亦の名を「胆杵磯丹杵穂命(いきいそにきほのみこと)」と云う。
 饒速日命は天の磐船に乗り、河内国の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った。更に、大倭(やまと)国の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわやま)へ遷った。
 天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)を駆け巡り、この地を巡り見て天降られ、「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」と云われるのは、このことである。
 饒速日尊が亡くなり、まだ遺体が天に昇っていないとき、高皇産霊尊が速飄神(はやかぜのかみ)にご命令して仰せられた。「我が御子である饒速日尊を、葦原の中国に遣わした。しかし、疑わしく思うところがある。お前は天降って調べ、報告するように」。
 速飄命は天降って、饒速日尊が亡くなっているのを見た。そこで天に帰り昇って復命した。「神の御子は、既に亡くなっています」。
 高皇産霊尊は哀れと思われて、速飄命を遣わし、饒速日尊の遺体を天に昇らせ、七日七夜葬儀の遊楽をし、悲しまれ、天上で葬った。
 饒速日尊の妻の御炊屋姫は「天の羽羽弓・羽羽矢、神衣(かんみそ)・帯・手貫(たまき)」を登美の白庭邑に埋葬して、これを饒速日命の墓とした。

 福岡県宮若市磯光(いそみつ)266に天照神社(あまてるじんじゃ、てんしょうじんじゃ、主祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊)が鎮座している。旧地名は福岡県鞍手郡宮田町磯光で、宗像大社の神領だったので地名が「宮田」となった。
 天照神社は笠置山(425m)山頂にあった饒速日の神霊を1308年に遷座したと云う。戦国時代には宗像氏が山頂に築城し、その後は秋月氏に移ったと伝えられ、豊臣秀吉の九州平定により廃城となった。現在では笠木城址として案内板が立てられている。

 天照神社は笠置山の北東5.5km、六ケ岳の南2.5km、遠賀川(おんががわ)支流の犬鳴川(いぬなきがわ)南岸に鎮座している。
 赤のアイコンが天照神社、黄が笠置山、青が貝島炭鉱跡。


 饒速日命(165年頃-225年頃)が最初に降臨したのが笠置(笠木)山であった。天照神社は東向きだが少し北に振っており、霊山・福智山(英彦山六峰のひとつ、901m)の方に向いている。主祭神は饒速日尊だが、水平切りの千木と6本の鰹木は女神仕様になっている。

 大和国で亡くなった饒速日の遺体が天上に埋葬されたので、妻の御炊屋姫(みかしきやひめ)が饒速日の遺品を鳥見の白庭山に埋葬して墓とした。鳥見の弓塚とも云う。

 奈良県生駒市上町4447の伊弉諾神社は長弓寺の鎮守として創建されたが、1km東の丘に長弓寺の飛び地境内があり、「真弓塚」がある。饒速日の遺品を納めたのが真弓塚だと云う説がある。
 もう一つの候補は富雄川を挟んで真弓塚の2.2km西の山中にあり、山伏塚(檜の窪山、標高230mほど、奈良県生駒市白庭台5丁目)と呼ばれていた。周辺一帯は長髄彦(ながすねひこ)の本拠地だ。
 山伏を山主の転訛と見て、饒速日の墳墓と考えた地元の有志により、大正時代の初め頃に整備され、「饒速日命墳墓」の石碑が建てられた。

 「饒速日命墳墓」の石碑から4km北北西に磐船神社が鎮座、東遷してきた饒速日が磐船に乗って降臨したところである。
 赤のアイコンが饒速日命墳墓、青が真弓塚、黄が磐船神社


 2013年1月14日投稿の「磐船神社」をご参照ください。

 また饒速日尊と可美真手命を祀る石切剣箭神社(東大阪市)については2013年1月16日投稿の「石切剣箭神社」をご参照ください。
 神社の北方は日下町(くさかちょう)で、神武東遷軍が長髄彦と戦って負けた孔舎衛坂(くさえのさか)です。

 私見ですが、饒速日の墳墓は奈良県桜井市三輪山山頂(標高467m)の奥津磐座ではないかと考えています。或いは、纏向を都とした饒速日が毎日拝んでいた斎槻岳(穴師山)でしょうか。斎槻岳は崇神天皇陵、箸墓古墳、纏向遺跡の大型建物跡の軸線が交わる所にあります。2015年4月18日投稿の「斎槻岳」をご参照ください。

 2世紀後半の北部九州では、素戔嗚(140年頃-200年頃)、饒速日の出雲族は主に遠賀川周辺、筑後川周辺、宇佐などの周防灘沿岸地域を治めていたが、西暦185年頃に饒速日が大部隊で大和へ東遷、200年頃に素戔嗚が亡くなると宗像を治めていた大国主(160年頃-220年頃)が素戔嗚の後継者となった。
 そこを狙って高皇産霊(140年頃出生)が武力により大国主に国譲りを強制した。北部九州の出雲族支配地(葦原の中つ国)は天孫族に奪われてしまった。そして、卑弥呼(天照大神、179年-247年)が201年に邪馬台国(倭国、北部九州の29ヶ国)の女王に就任。

 それから300年以上経った26代継体天皇(531年崩御)の時に、北部九州で筑紫国造の磐井の乱が勃発、物部麁鹿火(もののべのあらかい、536年没)が528年に大将軍となって故地の筑紫に出兵、鎮圧した。物部麁鹿火は饒速日の15世孫である。
  饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄―
  十市根―物部胆咋―物部五十琴―物部伊莒弗―物部布都久留―木連子―
  麻佐良―物部麁鹿火

 天照神社の立地は筑豊炭田地区で、前を流れる犬鳴川を利用して、底が平らな「川ひらた舟」で石炭を運んでいたが、明治時代半ばには鉄道輸送に変わる。石炭は若松、八幡方面などに輸送された。
 当社の1.7km南西の貝島炭鉱が筑豊炭田最後のヤマとして1976年に閉山になり、各抗で祀られていた山の神(山神社)を当社境内横に遷したのが貝島炭鉱鎮守・大之浦神社で、祭神は大山積神である。貝島炭鉱の5抗の山神社が当地にまとめられた。大山積神については、9月5日投稿の「大山祇神」をご参照ください。

 貝島炭鉱跡に宮若市石炭記念館があり、道路横には貝島炭鉱で使用されたアメリカン・ロコモティブ社製(American Locomotive Company、通称ALCO)のアルコ23号蒸気機関車(愛称:弁当箱)とロト39号貨車が保存されている。1920年に輸入され、1976年までの56年間活躍した。
 石炭記念館内に「増産報国」と書いた額が展示されているように、石炭産業は国策事業であった。記念館の北には貝島炭鉱露天掘り跡がある。
 日本の石炭は品質が低く、日露戦争の戦艦用石炭は輸入していた。炭鉱事故で多くの犠牲者が出たことや労働争議もあり、炭鉱は閉鎖され、現在の日本では安価で高品質の外国産の石炭を年間2億トン近く輸入している。

 宇佐神宮参道脇には宇佐参宮線26号蒸気機関車(大分県指定有形文化財)が保存されている。駐車場沿いの参道を進み、入口の赤鳥居を過ぎると直ぐ左手にあります。
 九州鉄道が1894年にドイツのクラウス社から購入し、博多~久留米間の花形機関車として活躍した。1948年に大分交通に譲渡され、豊後高田駅-封戸駅-宇佐駅-橋津駅-宇佐高校前駅-宇佐八幡駅までの宇佐参宮線に1965年まで使われた。この蒸気機関車は71年間も活躍した。
 話が饒速日から離れてしまったが、饒速日は185年頃に宇佐から大部隊で大和へ東遷していった。
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by enki-eden | 2016-09-25 00:57