古代史探訪

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紀伊路(きいじ)

 古くは紀路(きじ)とも云う。
 紀伊路は弥生時代から使われていたが、5世紀半ばから6世紀の天皇の宮は長谷や磐余(いわれ)など奈良盆地南部に設けられ、「大和の宮」と「紀の川」を結ぶ官道となった。途中に巨勢谷を通るので巨勢路(こせじ)とも云われた。

 畝傍山の東を南北に走る「下ツ道」を南に進むと丸山古墳(畝傍山・橿原神宮の方を向いた前方後円墳)、次に欽明天皇陵(東西向きの前方後円墳)、次に岩屋山古墳(方墳か)の傍を通る。そこから徐々に南西方向に向かうが、近くを近鉄吉野線が並走する。
 吉野口駅あたりからはJR和歌山線が並走するようになる。奈良県五條市で吉野川(紀の川中流)に至る。JRの駅名は「五條」ではなく「五条」になっている。当地は古代の大和国宇智郡で宇智神社(宇智大神)が鎮座。宇智大神は武内宿禰と云う説がある。ここからは水路で紀の川を下って大阪湾から瀬戸内海方面に出る。
 「紀の川」は奈良県域では「吉野川」と呼ばれ、中央構造線に沿って和歌山県を西に流れて紀伊水道に注ぐ。地図には「紀ノ川」と記されることがある。古代には、紀の川は紀氏が葛城氏と共に管理していた。
 奈良盆地西部に本拠を置く葛城氏が紀の川へ行くには、葛城山・金剛山麓の道路を通り、途中から紀路に入った。
  和歌山県伊都郡かつらぎ町の「道の駅・紀の川万葉の里」から紀の川を望む。
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 紀路は7世紀の飛鳥時代にも飛鳥から紀の川へ行く官道で、8世紀の奈良時代には南海道として利用された。
 古代の紀の川は和歌浦に注いでいたが、1400年代の地震と津波で川筋が変わり、紀伊水道に注ぐようになった。和歌浦に注いでいた川の部分も残っており、和歌川となっている。昔は暴れ川だったようです。紀路(黄色い線)と和歌浦に注ぐ古代の紀の川(赤い線)を示します。
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 古代の和歌浦河口の港は紀伊水門(きのみなと)と呼ばれていた。紀伊水門は6世紀までは紀氏が管理し大和朝廷が直轄する重要な外港であった。紀伊水門には国内外の交易品が集中していたので鳴滝倉庫群があった。上の地図にあるピンクの丸印が鳴滝倉庫群(和歌山市善明寺)です。
 高床式倉庫群が5世紀前半に造られ、20坪前後の倉庫が7棟で、総面積は140坪ほどです。交易品や食料・武器などが保管され、交易航行時には武器・兵器は必須携行品でした。
 和歌山市ホームページの鳴滝倉庫群。 現在は埋め戻され近畿大学付属高校のテニスコートになっている。
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 紀伊国名草郡の紀伊国造家の本拠地は日前宮です。2013年2月1日投稿の「日前宮」をご参照ください。
 紀氏は大和政権と密接に結びつき、政権のための水運・軍事・政治に貢献した。紀の川と瀬戸内海から海外への水運を統括し、国内外の交易を掌握していた。5世紀には大和の平群谷と山背南部の紀伊郡にも同族を配置した。平群谷の紀氏は紀朝臣となり貴族化していった。
 葛城氏、物部氏、蘇我氏など有力豪族が次々と天皇家によって弱体化される中で、紀氏は最後まで勢力を保つことができた。

 5世紀後半になると大阪湾の難波津の港(大阪市中央区法円坂町)が拡充され難波倉庫群が完成。16棟以上の高床式倉庫群で、全棟で425坪ほどもあり、鳴滝倉庫群の3倍の大きな規模となる。
 大和川は物部氏が支配していたが、当時の大和川は淀川と共に大阪湾に注がずに河内湖に注いでいた。5世紀末頃に大和政権は「難波の堀江(水路)」を掘削して河内湖の水を大阪湾に導いた。その開発によって難波地域の都市計画が進んだ。
 河内湖は川からの堆積物で徐々に縮小していったが、江戸時代の1704年に、北上して河内湖に注ぐ大和川を西方向に流れを替え、堺の海に放流することにより河内湖は消滅し河内平野になった。

 7世紀には大和から瀬戸内海方面・海外への航路は紀の川から大和川に移っていった。航路の変更は物部守屋が587年に滅ぼされ物部氏の勢力が弱くなったことと関係があるでしょう。大和川の水運と難波津の管理は大和政権が直轄するようになり、海外交易の拡大、遣隋使・遣唐使の派遣などに利用された。

 難波倉庫群の法円坂遺跡に1棟の倉庫が復元されている。左(西側)に10棟、右(東側)に6棟の倉庫跡が見える。赤丸は復元された1棟の倉庫。復元倉庫の北隣りが大阪歴史博物館、その西隣りがNHK大阪放送局。
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 この他の大型倉庫群は大阪府豊中市の蛍池東遺跡、奈良県御所市の南郷遺跡群(葛城氏)、奈良県天理市の布留遺跡(物部氏)にある。これらは5世紀の古墳時代の遺跡である。
 古墳時代に入って100年が経過した4世紀半ばに大和政権が国内統治をほぼ達成し、海外との交易に力を注ぎ、海外派兵も頻繁に行われるようになった。
 それを進める為に5世紀の大和政権は交易品・食料・兵站用の倉庫群を重要拠点に建設した。また河内国には応神天皇陵や仁徳天皇陵など巨大な前方後円墳が築造された。
 大和政権の海外進出に呼応するように玄界灘の沖ノ島では、4世紀後半から大和政権が国家的な祭祀を行うようになった。祭祀は航海安全、交易の成功、戦勝祈願などである。特に戦勝祈願は切実であった。沖ノ島の祭祀については、2014年2月26日投稿の「沖ノ島の祭祀」をご参照ください。

 4世紀から5世紀にかけての時代は、大陸では八王の乱(300年-306年)、五胡十六国の乱立(304年-439年)、西晋の滅亡(316年)、東晋滅亡(420年)などで戦乱が続いた。戦乱を避けて多くの漢人などが列島に逃れて来た。
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by enki-eden | 2017-01-08 00:16