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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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弥生時代の交易

北部九州の弥生人骨分布
 山口県、福岡県、佐賀県の水田稲作地域から出土する弥生時代の人骨は渡来系の弥生人である。佐賀県西部、長崎県、熊本県天草諸島の山間部や海岸地域から出土する人骨は縄文人である。
 従って、縄文人と弥生人は住む地域が分かれていた。縄文人は追い出されたのか、縄文人と渡来系弥生人の交流は北部九州では盛んではなかったのでしょう。

 列島が縄文社会から弥生社会へ移行したのは、江南地域(長江流域)から渡来した呉人、越人、楚人と中原(黄河流域)から渡来した漢人による。
 3,000年以上前の縄文時代にも大陸から列島へ交易に来た人々もあり、そのまま列島に住み着いた人々もいる。中国の春秋時代は紀元前8世紀から紀元前5世紀までで、その時代の列島への渡来数は多くなかったでしょう。それ以前だともっと少ないでしょう。
 縄文時代にも稲作や養蚕があり、遺跡も残っているが、稲作社会が列島中に広がることもなく、縄文社会がなくなることもなく、渡来人数も限られている。
 弥生時代の始まりを500年から800年古くする説が増えてきたが、その期間は縄文時代の中の弥生的萌芽であって、列島全体として社会が大きく変わり縄文時代から弥生時代に移ったと見るのは紀元前5世紀から4世紀だと私は考えている。

 紀元前5世紀から紀元前3世紀までの大陸は戦国時代になり、戦乱が大規模で激しく、更に北方遊牧民の侵入も加わった。
 その結果、長期に亘って波状的に列島へ逃亡する人々が増えて累積渡来数が増大。縄文人の出産率の低さと渡来人の出産率の高さによって、渡来人の人口は急速に増えた。山間部に逃げる縄文人も多かったが、徐々に渡来人との交流が進み弥生時代に移っていく。

 福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡(くま・にしおだいせき)は規模、遺構、出土物などにおいて佐賀県神埼郡の吉野ヶ里遺跡に匹敵する遺跡である。この遺跡の住人は弥生人の特徴が非常に際だった集団であった。
 隈・西小田遺跡の甕棺墓群の中央にあった弥生中期後半の23号甕棺墓からは、35才くらいの男性人骨と鉄戈、鉄剣、前漢鏡、青銅武器、玉、ゴホウラ貝製腕輪41個(右腕に21個、左腕に20個)などの副葬品が出土している。この地の首長墓と考えられ、貝製腕輪は南西諸島との交易によるものである。
 祭祀遺構からは中細形銅戈23口が一括埋納されていた。

弥生時代の交易
 弥生時代中期の中頃~後半になると列島内や大陸との交易が益々拡大していく。
 紀元前108年に前漢が朝鮮半島に楽浪郡を設置すると、北部九州の墳墓の副葬品に前漢鏡や武器などの青銅器が見られるようになる。
 また、奄美大島や沖縄の珊瑚礁に生息するゴホウラやイモガイという大型の巻貝を加工した貝製腕輪や、新潟県糸魚川産のヒスイなども近畿や北部九州などの遺跡で発見されている。
 これらは村の首長や祭司長の装飾品や副葬品であり、対内・対外交易が盛んになったためである。
 弥生時代の南西諸島との貝交易については、熊本大学の木下尚子教授の「貝交易の語る琉球史」に非常に詳しく解説されている。以前は講演内容をインターネットで見ることができましたが、今では閉鎖されたようです。
 
 記紀によると、神武天皇は大和国に東遷する前は日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし手研耳(たぎしみみ)などが生まれたとある。これは神武が北部九州から日向国に派遣され、南西諸島との貝交易に携わっていたと私は考えています。
 神武は高皇産霊に呼び戻されて大和国に東遷し、国を治めるための資源として水銀朱を開発独占した。貝よりも朱の方がはるかに価値が高かった。

 弥生時代には銅器や鉄器の使用も本格化し、弥生時代中期から後期にかけて内外の広範囲にわたる交易ルートが確立された。弥生時代を通じて交易・交流のノウハウが蓄積されていった。
 大陸と交易するためには列島各地の豪族が役人を楽浪郡に派遣して、漢字や言語の使用、制度などを理解する者を養成していた。

 後漢末になると公孫氏が楽浪郡・帯方郡を支配したので倭国は公孫氏と交易をしたが、西暦220年に後漢から魏に移ると238年に公孫氏が滅ぼされ、倭国(北部九州)は西暦239年から魏と直接交易をするようになる。
 新撰姓氏録には「右京 諸藩 漢 常世連(とこよのむらじ) 燕国王公孫淵之後也」、「河内国 諸藩漢 常世連 燕国王公孫淵之後也」とある。公孫氏又はその部下は列島に逃亡し、常世連を称した。
 常世氏が奉斎する神社は大阪府八尾市神宮寺の常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ、八王子神社)で、常世氏は当地を本拠地とした。常世氏の本姓は赤染氏で、赤染氏は茜染めを職としていた。

 三国志には公孫氏一族は滅亡したとあるが、列島に逃れて来た公孫氏がいたのか、それとも王族ではなく家来なのか。公孫恭は魏の将軍・司馬懿(179年-251年)に助命されたが性的不能で子はいなかったとある。
 司馬懿は卑弥呼(西暦179年-247年)と同年生まれで、卑弥呼の死後4年に亡くなっている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2017-01-14 00:23