2017年 11月 23日
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は五十猛命(いそたけるのみこと)か
日本書紀によると、大日孁貴(おおひるめのむち、天照大神)の子の天忍穂耳尊と高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)の子が天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)になっている。
西暦201年頃に「葦原の中つ国」が平定された後、天孫の瓊瓊杵尊が「筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)」に降臨した。浜辺で美人の木花開耶姫(このはなさくやひめ、大山祇神の娘)を見つけ妻とした。大山祇神は木花開耶姫と共に姉の磐長姫(いわながひめ)も妻として送ったが、磐長姫は醜いと云って返された。
高千穂の所在地は、宮崎県・鹿児島県と云われており、関連の地名、伝承、陵墓参考地などが残っている。しかし、「筑紫」は現在の福岡県であり、私見ですが、「日向(ひむか)」は日向峠(ひなたとうげ、糸島市高祖)周辺、「高千穂」は高祖山(たかすやま、416m)、「槵触峯」は高祖山の東南の古名・クシフル山だと考えています。
そして降臨した瓊瓊杵尊(180年頃出生)が出かけた「浜辺」は糸島半島の海岸です。現在の糸島市は半島とつながっているが、3世紀の当時は瑞梅寺川と泉川のあたりが細い海峡になっていた。糸島半島は島になっていたので志摩国(島国)で、魏志倭人伝記載の「斯馬国」であった。
そして海峡の南が「伊都国」であった。伊都国の雷山(らいざん、955m)から北に流れる川の土砂による扇状地の拡大で海峡がなくなったと考えられる。海峡は川として部分的な形跡を今に残している。
瓊瓊杵尊が木花開耶姫に会ったのはこの海峡付近だったかもしれない。雷山の中腹に鎮座する雷神社(いかづちじんじゃ)の主神は水火雷電神(すいからいでんしん)で瓊瓊杵尊のことである。
大山祇神一族は伊都国と斯馬国に住んでいた。その後、愛媛県今治市の大三島に移ったか。
2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。
魏志倭人伝記載の3世紀の伊都国に置かれた一大率の長官名が「爾支(にき)」である。糸島半島の志摩の海岸線は、「幣(にぎ)の浜」、「幣の松原」である。瓊瓊杵尊の名と繋がりがありそうだ。
佐賀県三養基郡(みやきぐん)基山町(きやまちょう)宮浦2050の荒穂神社の主祭神は瓊瓊杵尊で、五十猛命も祀られている。祭神は変遷したかもしれない。社伝によると、瓊瓊杵尊が基山(きざん、404m)に登り、国見をしたとある。
福岡県筑紫野市武蔵694に鎮座する荒穂神社の祭神は五十猛命になっている。当社は三養基郡基山町の荒穂神社から勧請したと云う。祭神は瓊瓊杵尊とも云われるが、本来は五十猛命とされている。筑前国続風土記附録に「荒穂神社は五十猛命を祀る」とある。
「荒穂の神」が瓊瓊杵尊(180年頃出生)なのか、五十猛命(160年頃-220年頃)なのか。五十猛命は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)と大矢女命(筑紫紀氏)の子で、素戔嗚尊に最もよく似ていたと云う。素戔嗚尊に北西部九州の統治を任され、対馬国・壱岐国・末盧国(佐賀県)・斯馬国(志摩国)・伊都国を統括する王であった。
名前の五十猛(いそたける、いたける)も「いそ(磯)猛」で母の大矢女命(筑紫紀氏)は海人族であった。筑紫紀氏は須佐嗚尊(すさのお)を祖として、五十猛命に続く。海人族だから造船用の木材を必要とし、林業の神となった。部族名も紀(木)である。大和朝廷では一部の紀氏は公家になった。
大国主命の統治する宗像国(宗像市)・刺国(福津市)は201年頃に天孫族によって国譲りをさせられたが、軍事力の強い五十猛命は国譲りしなかったであろう。
それでも天孫族の瓊瓊杵尊の足跡が伊都国・斯馬国にあるのは降臨があったと云うことだ。その瓊瓊杵尊は五十猛命だと云う説がある。
雷山中腹鎮座の雷神社の主神は水火雷電神で、瓊瓊杵尊となっているが、水火雷電神は五十猛命だと云う人もいる。瓊瓊杵尊と五十猛命は同一神なのか。
図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

五十猛命が伊都国・斯馬国(志摩国)の王で、大山祇神も当地の豪族で、大山祇神の4人の娘の嫁ぎ先は神大市姫が素戔嗚尊、木花開耶姫が瓊瓊杵尊、木花知流姫が素戔嗚尊の第1子八嶋野であるから、瓊瓊杵尊は五十猛命の可能性がある。
しかし、瓊瓊杵尊は天津神(天神)、五十猛命は国津神(地祇)として区別されている。両者の母親も違うので、やはり別神と考えられる。
本来、北西部九州で崇敬されていたのは五十猛命であるが、7世紀・8世紀には素戔嗚尊・五十猛命の評価が大きく低下、代わりに瓊瓊杵尊が崇敬された可能性が高い。
素戔嗚尊の評価を見直したのは平安時代の52代嵯峨天皇(786年-842年)で、「素尊(素戔嗚尊)は則ち(すなわち)皇国の本主なり」と述べた。
日本書紀は海幸彦と山幸彦の間に火明命を挿入しているのは、海幸彦と山幸彦は瓊瓊杵尊の子の世代(195年頃出生)ではなく、天火明命と同じ世代(140年頃出生)ですよと云う「筆法」になっている。
天照大神と高皇産霊尊の系図に海部氏・安曇氏の系図をはめ込んで直列にし、天照大神を天皇家の祖神にしている。しかし、「事実はこうだ」と筆法によってきちんと事実を示している。
西暦201年頃に「葦原の中つ国」が平定された後、天孫の瓊瓊杵尊が「筑紫の日向の高千穂の槵触峯(くしふるたけ)」に降臨した。浜辺で美人の木花開耶姫(このはなさくやひめ、大山祇神の娘)を見つけ妻とした。大山祇神は木花開耶姫と共に姉の磐長姫(いわながひめ)も妻として送ったが、磐長姫は醜いと云って返された。
高千穂の所在地は、宮崎県・鹿児島県と云われており、関連の地名、伝承、陵墓参考地などが残っている。しかし、「筑紫」は現在の福岡県であり、私見ですが、「日向(ひむか)」は日向峠(ひなたとうげ、糸島市高祖)周辺、「高千穂」は高祖山(たかすやま、416m)、「槵触峯」は高祖山の東南の古名・クシフル山だと考えています。
そして降臨した瓊瓊杵尊(180年頃出生)が出かけた「浜辺」は糸島半島の海岸です。現在の糸島市は半島とつながっているが、3世紀の当時は瑞梅寺川と泉川のあたりが細い海峡になっていた。糸島半島は島になっていたので志摩国(島国)で、魏志倭人伝記載の「斯馬国」であった。
そして海峡の南が「伊都国」であった。伊都国の雷山(らいざん、955m)から北に流れる川の土砂による扇状地の拡大で海峡がなくなったと考えられる。海峡は川として部分的な形跡を今に残している。
瓊瓊杵尊が木花開耶姫に会ったのはこの海峡付近だったかもしれない。雷山の中腹に鎮座する雷神社(いかづちじんじゃ)の主神は水火雷電神(すいからいでんしん)で瓊瓊杵尊のことである。
大山祇神一族は伊都国と斯馬国に住んでいた。その後、愛媛県今治市の大三島に移ったか。
2013年3月20日投稿の「伊都国を掘る」をご参照ください。
魏志倭人伝記載の3世紀の伊都国に置かれた一大率の長官名が「爾支(にき)」である。糸島半島の志摩の海岸線は、「幣(にぎ)の浜」、「幣の松原」である。瓊瓊杵尊の名と繋がりがありそうだ。
佐賀県三養基郡(みやきぐん)基山町(きやまちょう)宮浦2050の荒穂神社の主祭神は瓊瓊杵尊で、五十猛命も祀られている。祭神は変遷したかもしれない。社伝によると、瓊瓊杵尊が基山(きざん、404m)に登り、国見をしたとある。
福岡県筑紫野市武蔵694に鎮座する荒穂神社の祭神は五十猛命になっている。当社は三養基郡基山町の荒穂神社から勧請したと云う。祭神は瓊瓊杵尊とも云われるが、本来は五十猛命とされている。筑前国続風土記附録に「荒穂神社は五十猛命を祀る」とある。
「荒穂の神」が瓊瓊杵尊(180年頃出生)なのか、五十猛命(160年頃-220年頃)なのか。五十猛命は素戔嗚尊(140年頃-200年頃)と大矢女命(筑紫紀氏)の子で、素戔嗚尊に最もよく似ていたと云う。素戔嗚尊に北西部九州の統治を任され、対馬国・壱岐国・末盧国(佐賀県)・斯馬国(志摩国)・伊都国を統括する王であった。
名前の五十猛(いそたける、いたける)も「いそ(磯)猛」で母の大矢女命(筑紫紀氏)は海人族であった。筑紫紀氏は須佐嗚尊(すさのお)を祖として、五十猛命に続く。海人族だから造船用の木材を必要とし、林業の神となった。部族名も紀(木)である。大和朝廷では一部の紀氏は公家になった。
大国主命の統治する宗像国(宗像市)・刺国(福津市)は201年頃に天孫族によって国譲りをさせられたが、軍事力の強い五十猛命は国譲りしなかったであろう。
それでも天孫族の瓊瓊杵尊の足跡が伊都国・斯馬国にあるのは降臨があったと云うことだ。その瓊瓊杵尊は五十猛命だと云う説がある。
雷山中腹鎮座の雷神社の主神は水火雷電神で、瓊瓊杵尊となっているが、水火雷電神は五十猛命だと云う人もいる。瓊瓊杵尊と五十猛命は同一神なのか。
図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

五十猛命が伊都国・斯馬国(志摩国)の王で、大山祇神も当地の豪族で、大山祇神の4人の娘の嫁ぎ先は神大市姫が素戔嗚尊、木花開耶姫が瓊瓊杵尊、木花知流姫が素戔嗚尊の第1子八嶋野であるから、瓊瓊杵尊は五十猛命の可能性がある。
しかし、瓊瓊杵尊は天津神(天神)、五十猛命は国津神(地祇)として区別されている。両者の母親も違うので、やはり別神と考えられる。
本来、北西部九州で崇敬されていたのは五十猛命であるが、7世紀・8世紀には素戔嗚尊・五十猛命の評価が大きく低下、代わりに瓊瓊杵尊が崇敬された可能性が高い。
素戔嗚尊の評価を見直したのは平安時代の52代嵯峨天皇(786年-842年)で、「素尊(素戔嗚尊)は則ち(すなわち)皇国の本主なり」と述べた。
日本書紀は海幸彦と山幸彦の間に火明命を挿入しているのは、海幸彦と山幸彦は瓊瓊杵尊の子の世代(195年頃出生)ではなく、天火明命と同じ世代(140年頃出生)ですよと云う「筆法」になっている。
天照大神と高皇産霊尊の系図に海部氏・安曇氏の系図をはめ込んで直列にし、天照大神を天皇家の祖神にしている。しかし、「事実はこうだ」と筆法によってきちんと事実を示している。
by enki-eden
| 2017-11-23 00:07