古代史探訪

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素戔嗚(すさのお)と楚(そ)

 中国戦国時代の楚の最後の王は「熊負芻(ゆう ふすう)」で、BC265年頃出生、BC223年没。
楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)、楚の最後の王は負芻(ふすう、fuchu)で、秦(BC221年-BC206年)に滅ぼされた。
 秦の人質になっていた昌平君が楚を建て直そうとして秦に背いたが、BC223年に戦死した。

 その秦が反秦連合によりBC206年に滅亡すると、西楚の項羽(こうう、BC232年-BC202年)と漢王の劉邦(りゅうほう、BC256年-BC195年)が楚漢戦争(BC206年からBC202年)で戦う。
 劉邦が勝利し、長安を都とする前漢時代(BC206年-AD8年)に入る。項羽と劉邦はどちらも同じ楚人だと考えられる。
 劉邦が中国を統一したので、本拠地としていた中国西方の「漢中(陝西省南西部)」が中国全体を表わす言葉の「漢」になっていく。漢民族、漢語、漢文、漢字、漢詩、漢土、漢方薬など。

 素戔嗚(布都斯、ふつし、西暦140年頃出生)の父・布都(ふつ)は、楚の最後の王・熊負芻(ゆう ふすう)の名を借用したのだろうか。負芻(fuchu)が布都になったのかもしれない。
 素戔嗚は出雲国風土記に「野大神櫛御気野命」、「野加武呂命」と記され、楚王の(ゆう)氏に因んでいるのか。

 地名・人名の熊本(隈本)、球磨川、熊襲、隈(筑紫野市、日田市など)、熊毛郡(山口県、鹿児島県)、熊鰐(事代主)、羽白熊鷲(はじろくまわし)、千熊長彦(ちくまながひこ)などは楚と関係が深いのではないか。

 私は熊襲の「襲」は「楚」ではないかと考えています。葛城津彦、倭迹迹日百姫もそうではないだろうか。

 素戔嗚系・大国主系は民族的には楚人だと私は考えています。楚人は縄文時代にも日本列島に来て吉備国や有明海地方に住み着いた。
 長江中流域の洞庭湖周辺の地に3,400年前の青銅器が大量に出土したが、山頂や山麓などで1mほどの深さに埋められていた。
 出土物は銅鐃(どうにょう、叩いて音を出す軍楽器)が中心で、開口部を上にして埋められた。戦争の時に銅鐃の取っ手を持って槌(鎚)で叩き、味方を鼓舞し、敵を威嚇したのでしょう。
 長江中流域から出現した「楚」はこの青銅器を埋納する風習をもっている。
 山東省南部にもこの風習がある。山東省南部は春秋戦国時代には楚の領土だった。銅鐃を国の境界線近くの丘に埋めて結界としたのか。
 同じように列島では、出雲系が中心になって全国に広まった銅鐸が、結界として傾斜地に埋納された。銅鐸の原型は銅鐃でしょう。2016年7月21日投稿の「銅鐸と銅鐃」をご参照ください。
 
 遺伝子調査は対象人数によって数値が変わるので確定的ではないが、日本人は世界でも少ない「Y遺伝子D系統」を36%ほど持っており、同系統は他にチベット人と一部の西アジア人しかいない。
 日本人にはD系統以外にC系統が6.6%ほどあり、D系統とC系統の42.6%が縄文系である。現在のアイヌ人はD系統を85%ほど持っている。琉球人はD系統とC系統を53.4%ほど持っている。

 日本人は東アジアに多いY遺伝子O系統を53.9%ほど持っている。
 O系統の内訳は、揚子江(長江)の呉系が32.1%ほど、越系が1.4%ほど、楚系が1.4%ほどになっており、これが弥生系である。圧倒的に呉系が多い。黄河系が19%ほどで、その内、漢族系が9%、漢族と交配した揚子江系が10%になっている。

 吉備地方のY遺伝子は日本全体の数値と大きく異なる。D系統は19%ほど、O系統が81%ほどで、縄文系が少ない。多くの縄文人が殺されたり、子孫を残せなかったか。
 O系統の中では、呉系が31%ほど、楚系が19%ほど、黄河系が31%ほどになっている。
 吉備国の地名由来に定説はないが、呉の国姓は姫(き)で楚の国姓は羋(び)なので、姫羋(きび)と呼んだのではないか。姫羋(きび)が吉備(きび)になったのではないかと考えています。
 2014年4月18日投稿の「楚辞」をご参照ください。   
Innami Kanki

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by enki-eden | 2018-08-15 17:34