古代史探訪

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物部麁鹿火(もののべのあらかひ)

 物部麁鹿火大連(おおむらじ)は饒速日尊14世孫、536年没。
 父は物部麻佐良大連、母は須羽直(すわのあたい)の女(むすめ)・妹古(いもこ)。
 物部麁鹿火は25代武烈天皇、26代継体天皇、27代安閑天皇、28代宣化天皇に仕えた大連で、武烈天皇崩御の後、507年に継体天皇を擁立した。

 麁鹿火は527年の筑紫国「磐井(いわい)の乱」で討伐将軍として出征、翌年に磐井を討って処刑した。磐井の子・筑紫君葛子(くずこ)は父の連座から逃れる為、「糟屋の屯倉(かすやのみやけ、福岡県糟屋郡)」を献上し、死罪を免れた。
 継体天皇は「長門より東の方は自分が治めよう。筑紫以西は麁鹿火が統括せよ」と云った。
 西暦201年頃の国譲りで、北部九州の出雲族支配地(福岡県東部と大分県)が卑弥呼(天照大神②)に献上されたが、今回の物部麁鹿火の武勲により、国譲りから330年後に再び出雲族出自の物部氏が九州を治めることになった。

 前回の投稿「下照姫」の最後に、『先代旧事本紀の天孫本紀によると、饒速日尊14世孫に「物部阿遅古連公(もののべのあじこのむらじきみ)は水間君(水沼君)らの祖である」とあるが・・・』と記したが、物部麁鹿火が九州を統括することになったので、麁鹿火と同じ饒速日尊14世孫で従弟の阿遅古(あじこ)に筑後川南部一帯を治めさせたと考えられる。
 その結果、水沼氏は阿遅古の配下となり、先代旧事本紀には「阿遅古は水沼氏の祖」と云う表現が使われたと考えられる。姻戚関係を結んで物部氏に取り込んでいった。
 物部氏はこのようにして、配下に「物部八十氏」或いは「物部百八十氏」と云われる大きな集団となった。諸国の多くの国造家としても繁栄した。

 物部麁鹿火の墳墓は大和国の大和川周辺にあると考えられるが、麁鹿火の墳墓の可能性があるのは奈良県天理市豊田町の豊田トンド山古墳。7世紀前半の築造で、直径約30mの円墳。
 石上神宮の1.3km北西にあり、物部氏の本拠地の布留遺跡を見下ろす位置にある。
 天理市教育委員会は「当地周辺を拠点にした豪族・物部氏の首長クラスの墓だった可能性がある」としている。



 福岡県嘉穂郡(かほぐん)桂川町(けいせんまち)寿命(じゅめい)の「桂川大塚古墳」が麁鹿火の墳墓と云う説がある。  
 桂川大塚古墳は、復元すると全長86mの前方後円墳で、遠賀川流域では最大、6世紀中頃築造の装飾古墳になっている。時代は麁鹿火と合うが・・・
 円形埴輪が出土し、斜面には葺石があり、二重の周濠が巡らされていたようだが、前方部は住宅などになっており形が少し残るのみ。すぐ横には大塚装飾古墳館があり、穂波川(ほなみがわ)が流れている。穂波川は少し下流になると遠賀川に合流する。
 王塚古墳は未盗掘だったので多くの副葬品が出土、重要文化財に指定され京都国立博物館に保管されている。



 物部氏は軍事、刑罰、祭祀に優れ、10代崇神天皇以降は天皇家と共に発展してきた。物部守屋が587年に蘇我氏に敗れ、物部氏の勢力に陰りが見えたが、40代天武天皇(686年崩御)の時に朝臣となり、石上(いそのかみ)氏と改めた。
 物部氏は軍事と祭祀には優れていたが、政治力がやや弱かったのではないだろうか。それに比べて蘇我氏や中臣氏(藤原氏)は政治力に長けていた。

 継体天皇から九州以西の統括を任された物部麁鹿火は、朝鮮半島南部の任那運営には消極的で、大伴金村の失敗もあり、任那は新羅によって滅亡する。
 任那の滅亡は562年とされているが、663年の「白村江の戦」で日本が敗れたことにより、任那は新羅によって滅ぼされたと考えられる。
 白村江の戦の指揮官は、安曇比羅夫(あずみのひらふ)であったが戦死した。安曇比羅夫は穂高神社(長野県安曇野市)に祀られている。海人族は実行部隊であって、戦略・戦術を駆使する指揮官には向かない。
 「白村江の戦」では、日本軍に戦略・戦術がなく、突撃により大敗した。太平洋戦争の敗北に似ている。
 白村江で物部氏が将軍として指揮を執っておれば違う結果になったであろうが、物部の勢力が弱まっており活躍の場がなかった。
 当時の最有力豪族は中臣氏で政治と祭祀は得意であったが、軍事には疎かった。
Innami Kanki   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
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by enki-eden | 2018-10-14 11:19