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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)

 三角縁神獣鏡は銅鏡の縁(ふち)の断面が三角の形になっている神獣鏡で、直径は20cm前後の大型鏡。これに対し、後漢(西暦25年-220年)や魏(220年-265年)から日本へ入ってきた銅鏡は小型と中型しかなかった。

 日本に前漢鏡が流入するのは弥生時代中期のBC2世紀頃からで、実用よりも祭祀用が主であった。墳墓の副葬品としても使われた。

 BC1世紀の前漢鏡は、文字を主要な文様とする「異体字銘帯鏡」を特色とする。これは、長年争っていた前漢と匈奴が和解した時期であるので、異民族向けに漢字を模様化して銅鏡に彫ったのではないか。北部九州の墓からも出土する。

 BC1世紀後半から紀元1 世紀前半頃になると動物を細線で描いた方格規矩四神鏡や細線式獣帯鏡が出現した。列島では100ほどの小国家群が成立しており、前漢・後漢と交易した。

 1 世紀中頃から後半にかけての後漢時代には、内行花文鏡、盤龍鏡、画象鏡が出現した。漢委奴国王の時代である。奴国が北部九州の倭国を代表して交易を進めた。
 西暦107年になると、奴国王帥升(4代目奴国王の角杙尊か)が後漢から倭王と認められ、交易的にも政治的にも倭国を代表するようになる。

 倭国でも3世紀頃から銅鏡が造られるようになった。卑弥呼(天照大神②、179年-247年)と臺與(天照大神③、235年頃-295年頃)の活躍時期である。
 天照大神が岩屋に隠れた時、石凝姥(いしこりどめ)が「八咫鏡」を造って天照大神を導き出した。これは卑弥呼が247年に亡くなり(岩屋に隠れる)、臺與が248年に2代目女王として就任する(岩屋から出てくる)ことを示している。

 石凝姥の父は天糠戸(あめのぬかと、鏡作連の祖)で、天糠戸は西暦185年頃の饒速日東遷の時に大和国へやってきた。
 大和では銅鐸を造っていたと考えられるが、10代崇神天皇(251年-301年)の時代になると銅鐸祭祀が廃止され、三角縁神獣鏡を大量に生産するようになる。
 三角縁神獣鏡は古墳時代前期の副葬品として大量に使用された。

 2世紀中頃までの遺跡から出土した中国鏡の分布は北部九州の倭国が中心であったが、饒速日東遷(185年頃)、神武東遷(204年頃)、臺與東遷(270年頃)などによって、北部九州の人々と文化が大和国に移動し、中国鏡の分布は近畿地方が中心に変わった。
 日本の政治・経済・社会の中心地が北部九州の倭国から近畿の大和国に移っていった。

 三角縁神獣鏡は4世紀から5世紀(古墳時代前期)築造の古墳から出土し、出土地は全国にあるが近畿地方に多い。これまでに500枚以上発見されている。
 鏡に彫られている神獣は、中国の神仙思想による仙人と霊獣である。

 卑弥呼が238年に魏に朝貢した時に100枚の銅鏡を受けたと魏志倭人伝に記載されており、三角縁神獣鏡がそれであると云う説が多い。
 故・森浩一先生(1928年-2013年)が、日本で大量に出土する三角縁神獣鏡が中国では1枚も出土していないのに魏からもらったと考えるのはおかしいと云われた。
 これに対して卑弥呼の特注品だから中国では出土しないと主張する人もいる。出土数が卑弥呼の100枚よりはるかに多いことについては、何度も朝貢交易したからだと云う。

 邪馬台国近畿説を唱える大阪大学大学院の福永伸哉教授(1959年生)は、三角縁神獣鏡の長方形鈕孔は魏の工房に特有な技術であるので三角縁神獣鏡は魏の工房で造られ、邪馬台国は近畿にあったと云っている。
 これに対しては、三角縁神獣鏡の鈕孔は8割ほどが不整形で紐を通しにくいので実用性はなく、副葬品として国内で造られたと云う反論がある。

 中国の考古学者の王仲殊氏(1925年-2015年)は、三角縁神獣鏡は呉(西暦222年-280年)の職人が日本で造ったもので、中国には三角縁神獣鏡は存在しないと述べている。また、平縁神獣鏡は長江流域の呉鏡で、黄河流域の魏鏡ではないとも云う。
 呉と交易している大和に呉の鏡職人が来たのか、280年に呉が滅んで、鏡職人が大和に亡命してきたのか。
 大阪府和泉市の黄金塚古墳出土の画文帯神獣鏡(径23cm)には、魏の年号である景初3年(329年)銘が彫られている。

 10代崇神天皇(西暦251年-301年)は、西暦300年頃に出雲大社の神宝を見たいと云って、物部武諸隅(280年頃出生)を出雲に遣わして、神宝を献上させた。
 その頃、丹波の氷上(ひかみ、加古川上流地域)の氷香戸辺(ひかとべ)が皇太子(11代垂仁天皇、265年-310年)に申し上げて、「子どもが神がかりして、出雲の神宝の鏡や玉について詠っています」と報告すると、崇神天皇は鏡を祀ることを命じた。

 これ以降、副葬品に大量の三角縁神獣鏡が使用されることになる。三角縁神獣鏡を大和で大量に製造し、各皇族・豪族に配布したと考えられる。
 大量に必要となった銅は中国から輸入したと考えられる。また、銅鐸祭祀を禁止したので、鋳つぶした銅鐸で鏡や矢じりを造ったようだ。銅鐸も原料は中国から輸入していたと考えられる。

 奈良県磯城郡田原本町八尾に「鏡作坐天照御魂神社」(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)が鎮座、当地に鏡作部(かがみつくりべ)が居住して鏡を製造した。祖神は石凝姥(いしこりどめ)で神社の創建は崇神天皇6年。   





 このほか、当地周辺には鏡作麻気神社(小阪)、鏡作伊多神社(2社、宮古と保津)、石見鏡作神社(石見)も鎮座している。

 「黒塚古墳」からは画文帯神獣鏡1枚と三角縁神獣鏡が33枚出土した。    
 画文帯神獣鏡は3世紀中頃築造の「ホケノ山古墳」から出土、中国南部の呉で造られ、近畿地方に出土が多い。   
 北部九州の倭王・卑弥呼が「中国北部の魏」と交易していた3世紀に、近畿の大和・天皇家は魏と対決している「中国南部の呉」と交易をしていたかもしれない。
 画文帯神獣鏡(5世紀の国産鏡で橿原市新沢109号墳出土)、橿原考古学研究所付属博物館。
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)_d0287413_1135181.jpg

 三角縁神獣鏡(奈良県北葛城郡広陵町にある4世紀築造の前方後方墳・新山古墳出土、レプリカ)、橿原考古学研究所付属博物館、本体は宮内庁蔵。
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)_d0287413_1142444.jpg

 京都市左京区鹿ヶ谷(ししがたに)の泉屋博古館(せんおくはくこかん)は住友家の美術コレクションを保存展示しており、中国古代の青銅器が中心になっている。
 泉屋博古館は黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡を蛍光X線分析し、鏡に含まれる錫、銀、アンチモンの組成数値を調べたところ、古代中国の前漢後期から三国時代(紀元前1世紀~紀元3世紀)の鏡の組成数値の分布エリアに収まることが判明した。
 黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡と前漢後期から三国時代の中国鏡が、同様の原材料で作られている可能性がある。
 黒塚古墳から出土した画文帯神獣鏡1面も、同じ分布エリア内に収まっている。

 泉屋博古館は京都府城陽市の久津川車塚古墳出土の三角縁神獣鏡などを蛍光X線分析し、同様の結果を得ていた。広川守副館長は「黒塚古墳の鏡は材料的には中国産と考えられる。どこで作られたのかは分からないが、中国で製作された可能性もある」としている。
Innami Kanki    メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
by enki-eden | 2018-10-21 11:15