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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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金屎・金糞(かなくそ)

 製鉄のときに生じる不純物を金屎・金糞(かなくそ)と云うが、鉱滓(こうさい)、スラグとも云う。

 滋賀県と岐阜県にまたがる伊吹山地(いぶきさんち)、その北部にある滋賀県長浜市と岐阜県揖斐郡(いびぐん)の境界に「金糞岳」(かなくそだけ、きんぷんだけ、1317m)があり、伊吹山(1377m)に次ぐ第2高峰となっている。
 金糞岳から流れ出る東俣谷川(ひがしまただにがわ)周辺に鉱山跡や製鉄遺跡がある。

 

 東俣谷川は草野川に合流、そして有名な姉川に合流して琵琶湖に注ぐ。琵琶湖周辺は弥生時代には有数の鉄の産地であったので、鉄と水運に関わる有力な諸豪族を輩出した。
 伊香氏(琵琶湖北部の伊香郡)、伊吹山西麓の息長氏(米原市、天野川流域)、坂田氏(姉川流域)、犬上氏(彦根市犬上郡・犬上川流域、子孫に犬上御田鍬)、海人族の和珥氏(大津市和邇)と安曇氏(高島市安曇川、あどがわ)など古代豪族がひしめいていた。

 金糞岳の山名由来が製鉄の「金糞(かなくそ)」だと云う。踏鞴製鉄(たたらせいてつ)の結果、山は禿げて、川は汚染された。
 川は踏鞴製鉄がなくなった今では清流となっているが、踏鞴製鉄が盛んだった頃は下流域の農業には大きな被害があり、農民と製鉄師の争いが頻発する。
 江戸時代の当地は争いを避けるために、「鉄穴流し(かんなながし)」は農閑期に農民によって行われた。農民にとっては良いシステムとなったのではないか。

 福井県と岐阜県の境界にある金草岳(かなくさだけ、1227m)も元は「金糞ヶ岳」で、山麓の鉱山跡に由来する名になっている。

 

 踏鞴製鉄により、森林が伐採され、大量の土砂が川に流れ出て川底が上がり、大雨の後には川の氾濫が起きる。鉄滓(てつさい)も大量に出て踏鞴製鉄の副作用は大きい。

 更に「金糞」地名を探してみると、
 滋賀県大津市の比良山地に金糞峠(880m)がある。
 愛知県一宮市木曽川町門間(かどま)金屎(かなくそ)と云う地名がある。
 青森県八戸市鮫町(さめまち)金屎(かなくそ)と云う地名もある。
 青森県三沢市金糞平(かなくそたい)は、出雲の製鉄集団が当地に来て踏鞴製鉄をした。たくさんの鉄滓(てつさい)が生じるので地名となったと云う。

 古代の踏鞴製鉄跡は全国各地で確認されている。製鉄炉跡、鉄器、鉄塊、鉄滓などが発見されており、弥生時代前期から踏鞴製鉄が行われていたことが分かる。
 2,400年ほど前から揚子江(長江)周辺から江南人(呉人、越人、楚人)が波状的に日本列島にやってきて弥生時代が始まるが、江南人が水田稲作と弥生土器に加え、砂鉄や褐鉄鉱を原料として踏鞴製鉄を行っていた。

 日本列島は砂鉄の宝庫であった。2,400年前の弥生時代の始まりから踏鞴製鉄が行われていた。しかし3,000年前の縄文時代に、鉄器はないが水田稲作を始めた一部の地域があったが、それは弥生時代とは呼べない。
 「水田稲作」、「弥生土器」、「踏鞴製鉄」が「広範囲の地域」に認められる2,400年前が「弥生時代」の始まりとなる。
 2013年5月に兵庫県立考古博物館で「踏鞴製鉄の再現」実演がありましたのでご覧ください。
「再現初回」「再現2回目」
   
 江南人の中でも渡来数の少ない楚人は文化程度も高く、武力も強大であった。楚人は出雲・吉備を中心として拡大していったが、青銅器と共に鉄器を製造・使用した。
 とりわけ、吉備国のY-DNAには縄文系が少なく、楚系・呉系・黄河系が多い。呉の国姓は姫(き)で、楚の国姓は羋(び)だから、合わせて姫羋(きび)→吉備(きび)になったと私は考えています。
 吉備の枕詞が「真金吹く(まがねふく)」であるように、吉備は踏鞴製鉄の盛んな鉄の産地であった。(真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ   古今和歌集)
 吉備国は黍(キビ)の産地だからと云う説が多いが・・・
 私見ですが、弥生時代末期の素戔嗚(140年頃-200年頃)は楚人の製鉄族だと考えています。

 弥生時代の金属器は青銅器が中心だったが、北部の黄河系の製鉄とは別系統で南部の長江系の踏鞴製鉄を行っていた。
 明治時代と同じで、弥生時代も「鉄は国家なり」であったようだ。記紀の2世紀頃の記事にも製鉄関連の物語が多いが、「製鉄」を「出産」の記事として間接的な比喩で描かれている。

 中国や朝鮮の製鉄は溶融法による銑鉄・鋳鉄から再度脱炭製錬をして「鋼」を造る溶融銑鉄製鉄法(間接製鉄法)であった。
 日本の踏鞴製鉄は、塊錬鉄製鉄法(直接製鉄法)であり、トルコ→インド→ミャンマー→雲南→揚子江(長江)の江南人へと伝わった製法で、江南人が日本列島に波状的に渡来して、踏鞴製鉄・弥生土器・水田稲作などが始まり、2,400年前の弥生時代に入っていった。
 踏鞴製鉄によりできた鉄は不純物を多く含むので、加熱してハンマーで折り返し打撃して不純物を除去する作業が必要になる。

 素戔嗚尊(すさのおのみこと)と大日孁貴(おおひるめのむち、天照大神①)の争いは日本書紀によると、「素戔嗚尊は春には田の畔を壊したり、秋には田の中を荒らした。また天照大神が新嘗祭(にいなめさい)を行っているときに、こっそりとその部屋に糞をした。また天照大神の御殿の屋根に穴をあけて馬の皮を投げ入れた。」などと記されている。

 「田を荒らした」と云うのは、素戔嗚が上流で踏鞴製鉄をしているので川が汚染されて、灌漑ができずに農作物が不作となったことを指すと考えられる。私見ですが、この川は福岡県粕屋郡を流れる猪野川(いのがわ)で、下流では多々良川(たたらがわ)となって博多湾に注ぐ。現在は清流になっている。

 「糞をした」と云うのは、踏鞴製鉄で生じる金糞(かなくそ)がたくさんできて困ったと云うことか。

 「御殿の屋根に穴をあけた」と云うのは、踏鞴製鉄により川の底に土砂が大量に堆積して氾濫がおき、建物が壊れたり、流されたと考えられる。
 このように、日本書紀の表現方法は間接的な比喩によることが多い。
             ***
 私事ですが、先週、買い物に行ってエレベーターに乗った時、後ろから大きな外人が乗ってきました。アメリカ人だと思われる彼はジーパンをはいていましたが、ファスナーが下がっていました。
 私は「前が開いているよ」と教えてあげましたが、彼は勘違いして持っている買い物袋を確認しようとしましたので、私は露骨ですが指をさして「前が開いているよ」と教えました。
 そうすると彼は慌ててファスナーを上げて、「英語ではXYZ(エックスワイジー)と言います」と云ったので大笑いになりました。
 エレベーターの中で英語の勉強をしました。「XYZ」と云えば良かったんですね。

 印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2018-10-30 09:43