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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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淡路沼島(ぬしま、おのころ島)

 淡路島の南端沖に兵庫県南あわじ市沼島がある。私は沼島に渡ったことはないが、淡路島を車で一周した時に海岸沿いの道路から良く見えた。
 周囲9.5kmの島で、500人弱が住んでいるが、都市部への人口流出で大きく減少した。





 日本書紀によると、『伊弉諾尊と伊弉冉尊が「天の浮橋」に立って、天瓊矛(あめのぬぼこ)で青海原をかき回して引き上げると、矛の先からしたたり落ちる潮がかたまって島となった。それを名付けて「おのころ島」と云った。
 二柱の神は「おのころ島」に降りて大きな御殿を造り、「天に届く柱」を立てた。』とある。

 沼島が「おのころ島」だと云われているので、沼島の東海岸にそそり立つ30mの上立神岩(かみたてがみいわ)が「天に届く柱」なのかもしれない。天の御柱(あめのみはしら)とも云う。
 沼島のパンフレット

 淡路島の北端の岩屋漁港に小さな「絵島」があるが、私は子どもの頃から絵島が「おのころ島」だと思っていた。ちょっと小さすぎるかな?

 沼島(おのころ島)には神社も数社あり、西海岸の山の上に自凝神社(おのころじんじゃ)が鎮座している。祭神は勿論、伊弉諾尊と伊弉冉尊になっている。




 淡路島内の南あわじ市榎列(えなみ)下幡多(しもはだ)には自凝島神社(おのころじまじんじゃ)が鎮座、祭神は同じく伊弉諾尊と伊弉冉尊になっている。
 立派な赤い大鳥居が目立つ。

 大和朝廷にとって瀬戸内海を西へ遠征・進出するには、拠点として淡路島は重要な立地にあった。淡路島の海人族は優秀な水軍をもっており、造船も得意で、大規模の金属工房もあった。
 明石海峡を抑える部族もあり、阿波国(徳島県)・淡路島・和泉国(大阪府南西部)を交流して活躍する部族などもあり、朝廷にとっては淡路海人族を味方に取り込む必要があった。

 淡路島は古代から大和政権と強く結びついており、海産品などを献ずる御食国であった。先代旧事本紀の国造本紀によれば、16代仁徳天皇(386年-429年)の御代に、神皇産霊尊の九世孫の矢口足尼(やぐちのすくね)を淡道国造に定めたとある。
 仁徳天皇は頻繁に淡路島へ行っている。淡路島には良い狩場があり、伊弉諾命が国生みで最初に造ったのがおのころ島(沼島)と淡島(淡路島)であり、伊弉諾命(西暦125年頃出生)が淡路島の幽宮(かくりのみや、伊弉諾神宮)で余生を送った地であることが仁徳天皇を引き付けたのでしょう。

 堺市の仁徳天皇陵(墳丘長486m)を宮内庁と堺市が共同調査した。周濠の堤(つつみ)に石敷きがあり、その上に円筒埴輪がびっしりと1列に並んでいたことが分かった。
 埴輪は5世紀前半から半ばの特徴を持っているので、429年に崩御した仁徳天皇の陵墓に間違いないと私は思います。多くの人は仁徳天皇が4世紀末頃に崩御したので、埴輪の年代と数十年ほど合わないと云っているが、崩御年の推定を間違えているのが原因だと思います。
 今回の調査は天皇陛下の承諾が得られたので実現したが、今後も宮内庁管理の陵墓の調査を進めてほしいと思います。2019年5月1日に次期天皇に即位される皇太子殿下にも陵墓の調査にご理解を深めていただきたいですね。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2018-12-13 09:32