2018年 12月 25日
物部大咩布命(もののべのおおめふのみこと)
物部の祖・饒速日(にぎはやひ、165年頃出生)から7代目の「伊香色雄命」(いかがしこお、255年頃出生)は9代開化天皇(244年-294年)と10代崇神天皇(251年-301年)に仕えた。
伊香色雄は「石上神宮」を建て、氏神として祖神・素戔嗚の父の布都を祀った。
物部大咩布命(290年-364年)は伊香色雄命の末の息子で、11代垂仁天皇(265年-310年)に仕え、若湯坐連(わかゆえのむらじ)などの祖とされている。
兵庫県宝塚市売布(めふ)山手町に鎮座する売布神社(めふじんじゃ)は、近世まで貴船神社と称していたが、延喜式神名帳の摂津国河辺郡に記載の「売布神社」と判明したので、18世紀に社名を変更した。
社伝によると、605年の創建で、里人が下照姫神(高比売神)と天稚彦神を祀ったと云う。
当地周辺は物部若湯坐連(もののべのわかゆえのむらじ)が拠点としており、物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)が若湯坐連らの始祖になっているので、当社の本来の祭神は意富売布命(大咩布命)ではないか。
兵庫県三田市酒井宮ノ脇に鎮座の高売布神社(たかめふじんじゃ)の祭神は、下照比売命と天稚比古命になっている。
物部大咩布命を祭神とする説もある。
物部大咩布命の系図は、
饒速日→宇摩志麻治→彦湯支→出石心→大矢口宿祢→大綜麻杵→伊香色雄→大咩布
となっている。
新撰姓氏録の「山城国 神別 天神 真髪部 造 神饒速日命7世孫大賣布乃命之後也」とあり、「和泉国 神別 天神 志貴 県主 饒速日命7世孫大賣布命之後也」とある。
9世紀に編纂された但馬故事記(但馬国司文書)によると、
『物部大売布命は日本武尊(やまとたけるのみこと)に従い、東夷(あづまえびす)を征伐したことを賞し、摂津の川奈辺(川辺郡)、多遅麻の気多(けた)郡、黄沼前(きぬさき、城崎郡)の三県を与えられた。
大売布命は多遅麻の気多郡に入り、気多の射楯(いだて)宮に在した。多遅麻物部氏の祖である。』
と記されている。
射楯宮は但馬国気多郡高田郷石立(射楯)村にあったが、現在の地名は兵庫県豊岡市日高町国分寺797となっており、売布神社が鎮座、祭神は「気多の大県主」と呼ばれた物部連大売布命である。大売布命は神功皇后2年(西暦364年)に当地で亡くなり、射楯宮の後方にある射楯丘に埋葬された。
日本武尊の東国征伐は妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が同行したので、船団を運用したのは弟橘媛の属する穂積氏だったと考えられる。穂積氏は物部一族であるので、その船団を大売布命が指揮したのでしょう。「日本武尊の白鳥三陵」をご参照ください。
伊香色雄は「石上神宮」を建て、氏神として祖神・素戔嗚の父の布都を祀った。
物部大咩布命(290年-364年)は伊香色雄命の末の息子で、11代垂仁天皇(265年-310年)に仕え、若湯坐連(わかゆえのむらじ)などの祖とされている。
兵庫県宝塚市売布(めふ)山手町に鎮座する売布神社(めふじんじゃ)は、近世まで貴船神社と称していたが、延喜式神名帳の摂津国河辺郡に記載の「売布神社」と判明したので、18世紀に社名を変更した。
社伝によると、605年の創建で、里人が下照姫神(高比売神)と天稚彦神を祀ったと云う。
当地周辺は物部若湯坐連(もののべのわかゆえのむらじ)が拠点としており、物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)が若湯坐連らの始祖になっているので、当社の本来の祭神は意富売布命(大咩布命)ではないか。
兵庫県三田市酒井宮ノ脇に鎮座の高売布神社(たかめふじんじゃ)の祭神は、下照比売命と天稚比古命になっている。
物部大咩布命を祭神とする説もある。
物部大咩布命の系図は、
饒速日→宇摩志麻治→彦湯支→出石心→大矢口宿祢→大綜麻杵→伊香色雄→大咩布
となっている。
新撰姓氏録の「山城国 神別 天神 真髪部 造 神饒速日命7世孫大賣布乃命之後也」とあり、「和泉国 神別 天神 志貴 県主 饒速日命7世孫大賣布命之後也」とある。
9世紀に編纂された但馬故事記(但馬国司文書)によると、
『物部大売布命は日本武尊(やまとたけるのみこと)に従い、東夷(あづまえびす)を征伐したことを賞し、摂津の川奈辺(川辺郡)、多遅麻の気多(けた)郡、黄沼前(きぬさき、城崎郡)の三県を与えられた。
大売布命は多遅麻の気多郡に入り、気多の射楯(いだて)宮に在した。多遅麻物部氏の祖である。』
と記されている。
射楯宮は但馬国気多郡高田郷石立(射楯)村にあったが、現在の地名は兵庫県豊岡市日高町国分寺797となっており、売布神社が鎮座、祭神は「気多の大県主」と呼ばれた物部連大売布命である。大売布命は神功皇后2年(西暦364年)に当地で亡くなり、射楯宮の後方にある射楯丘に埋葬された。
日本武尊の東国征伐は妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が同行したので、船団を運用したのは弟橘媛の属する穂積氏だったと考えられる。穂積氏は物部一族であるので、その船団を大売布命が指揮したのでしょう。「日本武尊の白鳥三陵」をご参照ください。
by enki-eden
| 2018-12-25 11:38