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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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愛宕山の天狗

 京都市右京区の愛宕山(あたごやま、あたごさん、924m)山頂に愛宕神社が鎮座。祭神は伊弉冉尊、埴山姫神、天熊人命、稚産霊神、豊受姫命。
 愛宕山は山城国と丹波国の国境に位置し、嵐山(381.5m)の6.5km北西にある。愛宕神社は、全国で火伏せの神様を祀る約900社の総本社になっている。
 愛宕山は神戸の六甲山(932m)とほぼ同じ標高ですが、六甲山のように車では登れないので参拝は「登山」になり、私には無理です。私が生まれた昭和18年頃にはケーブルカーで行けたようですが、戦時中に撤去され今はありません。




 修験道の役小角(えんのおづぬ、634年-701年)が愛宕山(朝日峰)に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)に遭い、神廟を設けた。
 49代光仁天皇(709年-782年)の勅を受けた和気清麻呂(733年-799年)が、唐の五台山に倣って、781年に愛宕権現白雲寺などの愛宕五坊を愛宕山に建立し、神仏習合の山岳修業霊場となった。

 56代清和天皇(850年-880年)は愛宕山南麓にある水尾山(484m)との関係が深く、水尾天皇とも云われる。清和天皇は水尾山陵に埋葬され、500mほど東の清和天皇社に祀られている。



 愛宕山の山岳信仰と修験道による愛宕権現(あたごごんげん)は、愛宕山白雲寺において伊弉冉尊(いざなみのみこと)と将軍地蔵を神仏習合により融合したものであった。
 将軍地蔵は武装した姿で軍馬にまたがっており、武家が戦勝を祈って信仰した地蔵菩薩。天正10年(1582年)、明智光秀(1528年-1582年)が織田信長(1534年-1582年)を討つ前に愛宕山に登ったと云う。 「ときは今 あめが下知る 五月かな」

 江戸時代には白雲寺から発祥した愛宕信仰が全国に広まっていったが、明治の神仏分離令により、愛宕権現も白雲寺も廃止され、愛宕神社に改められた。
 明治5年には修験禁止令も出された。

 1889年(明治22年)に就役した海軍の砲艦「愛宕」は愛宕山に因んで命名され、日清戦争・日露戦争などに参加したが、1904年(明治37年)に座礁により沈没した。
 2代目の重巡洋艦「愛宕」は1932年(昭和7年)に就役、多くの戦績を残したが、1944年(昭和19年)にアメリカの潜水艦の攻撃で沈没した。艦内神社はもちろん愛宕神社であった。
 同じく愛宕山に因んだ海上自衛隊のイージス型護衛艦「あたご」が2007年(平成19年)に就役した。艦内神社は愛宕神社で、お賽銭箱もある。
 弥生時代にも、舟や丸木舟には航路の安全を守るために船魂神(ふなだまのかみ)を祀っていた。この信仰は連綿と現代まで続いている。

 毎年8月16日の京都五山の送り火の時は、広沢池(京都市右京区嵯峨広沢町)の真西2kmの水尾山(曼茶羅山、まんだらやま)では鳥居の形に松明が点火される。



 付近には52代嵯峨天皇陵(842年崩御)と91代後宇多天皇陵(1324年崩御)がある。
 また、近くには祇王寺(ぎおうじ)もあり、50年前に訪れたことを思い出しました。祇王寺は紅葉の美しい尼寺で、平家物語に登場します。

 愛宕神社の若宮社には伊弉冉尊の生んだ迦遇槌尊(かぐつちのみこと)が祀られており、迦遇槌尊の化身を愛宕修験の愛宕太郎坊天狗とした。
 愛宕太郎坊天狗は多くの眷属を従える「日本一の大天狗」となった。

日本八天狗
 1、愛宕山太郎坊(京都市右京区)、天狗の総大将。
 2、比良山次郎坊(滋賀県大津市)、比叡山に居たが、比良山に移った。
 3、飯綱三郎天狗(いづなさぶろう)、白狐に乗る長野県飯綱山のカラス天狗。
 4、大峰山前鬼坊(おおみねぜんき、奈良県大峰山)、前鬼は役小角(役行者)の高弟で、
   妻の後鬼(ごき)と共に役小角に従った。
 5、鞍馬山僧正坊(そうじょうぼう、京都市左京区)、牛若丸に武術を教えた鞍馬天狗。
 6、白峯相模坊(香川県坂出市)、崇徳上皇が配流地の讃岐国で1164年に憤死した時に、
   崇徳上皇を慰めるために、相模国から讃岐国の白峯山へ飛び移った。
 7、相模大山伯耆坊(神奈川県伊勢原市)、伯耆大山から相模国へ飛んだ。
 8、英彦山豊前坊(ひこさんぶぜんぼう、福岡県田川郡)、高住神社(英彦山神宮の摂社)。
   天津日子忍骨命(天忍骨命)が天降ったもので、役小角がこの山で修行した時、
   それを祝福して出現した。
 
 日本書紀によると、
『34代舒明天皇9年春(637年)、大きな星が東から西に流れ、雷に似た大きな音がした。人々は「流れ星の音である」と云い、あるいはまた「地雷(つちのいかづち)である」と云った。
 新漢人(いまきのあやひと)の僧旻(そうみん、653年没)は「流れ星ではない。これは天狗(あまつきつね)である。その吠える声が雷に似ているだけだ」と云った。』
とあるが、これが天狗の初見となった。

 このあと、役小角(役行者)が大和葛城山、大峰山、吉野山などで山岳修業を行い、全国の山を修業して修験道を開始、各地に天狗が現れたと云う。
 2013年5月8日投稿の「吉野水分神社と金峯山寺」をご参照ください。
   
 「猿田彦命」が天狗であると云う説も有力だ。神社の祭りの行列で先導しているのは猿田彦命で、天狗の面をかぶっている。   
 猿田彦命(2世紀後半)と天狗(7世紀から8世紀以降)が結び付けられたのは、修験道により天狗が出現して猿田彦命の風貌と似ていることが原因と考えられる。
 猿田彦命の風貌は日本書紀によると、「その鼻の長さ七握(ななつか)、背の高さ七尺あまり、口の端が明るく光っている。目は八咫鏡(やたのかがみ)のようで照り輝いていることは赤ほうずきに似ている」とある。  
 猿田彦命の風貌からすると、古代に日本へやってきたフェニキア人かもしれない。2017年1月1日投稿の「日本人とフェニキア人」をご参照ください。
印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp
by enki-eden | 2019-01-09 07:16