都久豆美命(つくつみのみこと)
天平5年(733年)、45代聖武天皇(701年-756年)に奏上されたと云われる出雲国風土記に、伊差奈枳命(いざなぎのみこと)の子と記されているのは、熊野加武呂乃命(くまのかむろのみこと、素戔嗚命)と都久豆美命(つくつみのみこと)がいる。
出雲国風土記、嶋根郡千酌駅家(ちくみのうまや)の由来に、『伊差奈枳命の御子、都久豆美命が千酌(ちくみ)に坐すので、地名は「都久豆美」と云うべきものを、今の人はまだ「千酌」と名付けたままである』と記されている。
都久豆美命は千酌の守護神、氏神であった。
都久豆美又は都久津美の語源は「月津美(つきつみ)」で、「月の神」だと考えられる。
月の位置によって潮の干満が発生するので、「月の神」は潮の干満を支配する航海安全の神となった。また、月齢による太陰暦(陰暦、lunar calendar)も造られた。
都久豆美命と月読命(つくよみのみこと)は同じと云う説もあるが、どちらも同じ月の神で伊弉諾命の子であっても、私は別神だと思います。「ツクツミ」と「ツクヨミ」はよく似た神名ですがねぇ・・・
島根県松江市美保関町(みほのせきちょう)千酌に爾佐神社(にさじんじゃ)が鎮座、日本海に面した千酌湾の西側に位置し、祭神は都久豆美神、伊邪那岐命、伊邪那美命で、社殿は東向き。月の出る東を向いているのか。
当社は旧・出雲国嶋根郡に鎮座の式内社で、「注連縄の向き」が向かって左が元となっているのは出雲大社に倣ったと考えられる。
千酌湾の東側には、美保関町北浦にある稲倉山(30m)の麓の伊奈頭美神社(いなづみじんじゃ)が東向きに鎮座、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたま)。
当社も拝殿の注連縄は向かって左が元となっている。
伊奈頭美神社の東に円錐形をしたランドマークの麻仁曽山(まにそやま、172m)があり、麓に伊奈阿氣神社(いなあきじんじゃ)が鎮座している。
以前は麻仁曽山の山頂に鎮座していたので、神社の神体山となっている。祭神は天御中主尊と事代主命。拝殿の注連縄は当社も向かって左が元となっている。
千酌湾沿いの三神社は、それぞれ目の前に漁港があるので、古代から渡航者や漁民が航海安全・豊漁を神社に祈願したのでしょう。
日本書紀の「国生み」では、伊弉諾命・伊弉冉命が国生みしたのはオノコロ島、淡路洲(あわじのしま)、大日本豊秋津洲(おおやまととよあきつしま、大和)、伊予の二名洲(ふたなのしま、四国)、筑紫洲(つくしのしま、九州)、次に億岐洲(おきのしま)と佐度洲(さどのしま)・・・とあり、隠岐島はかなり早くから倭国勢力と結びついている。
素戔嗚命や大己貴命は日本海を島根半島沿いに東に渡航し、千酌に上陸、天気の回復を待って60kmほど離れた隠岐島へ渡航していったと考えられる。隠岐島は日本海交易ルートの重要な拠点であった。
素戔嗚命が千酌に来た時には、都久豆美命も一緒に航海したかもしれない。
稲倉山、伊奈頭美神社(稲積)、伊奈阿氣神社(稲開き)は農業の稲関連の名になっているが、本来は古代のイナ(鉄)ではないでしょうか。
海人族と踏鞴製鉄は密接に関連しており、「イナ(鉄)」が古代の地名・社名に使われ、「伊奈、伊那、猪名、衣奈、猪野、伊野、伊根、井根、稲」になっている場合が多い。
稲佐山(いなさやま)、猪名川(いながわ)、猪野川(いのがわ)、稲荷(いなり)神社、稲爪(いなづめ)神社など。
「イナ(鉄)」は踏鞴製鉄(たたらせいてつ)に関連するが、博多湾に注ぐ川に多々良川(たたらがわ)があり、踏鞴製鉄に関連する川だったと考えられる。
素戔嗚の踏鞴製鉄の作業・鉄穴ながし(かんなながし)が川下の農業などに悪影響を与えたことが、記紀の素戔嗚と天照大神の争いとして描かれたように思います。
多々良川の上流は猪野川(いのがわ)と呼ばれ、「多々良」も「猪野」も製鉄関連の名です。上流には伊野天照皇大神宮(祭神は天照大神)が鎮座する。(福岡県糟屋郡久山町猪野604)
猪野川中流の久山町立山田小学校前に、神功皇后小山田邑斎宮伝承地がある。奴国の都は当地かもしれないが、もっと下流の香椎宮の辺りの方が相応しいか。防備の面から考えると小山田の方が安全だ。
古賀市小山田346にも小山田斎宮(おやまだいつきのみや)がある。
中世になり、農業の重要性が認識されるようになると、イナ(鉄)はイネ(稲)に変化して農業用語になっていった。出雲の千酌米も人気があるようだ。
出雲国風土記に記される50柱ほどの神々の中で「大神」と云われるのは、熊野大神(素戔嗚尊)、佐太大神(猿田彦命)、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ、大穴持命)、野城大神の4神である。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp