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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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嵯峨天皇と素戔嗚

西暦810年(大同5年)の正月、52代嵯峨天皇(786年-842年)は、「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」として、愛知県津島市神明町1「津島神社」に「日本総社」の号を奉られた。   

織田信長(1534年-1582年)も津島神社を崇敬していた。織田家の家紋も津島神社の神紋と同じ木瓜紋である。

津島神社(祭神・建速須佐之男命)は全国に3,000社ある津島神社・天王社の総本社になっている。祇園信仰の一つとして津島信仰・天王信仰と云われ、神仏習合時には津島牛頭天王社と称し、牛頭天王(素戔嗚尊)を祭神としていた。

津島神社の社伝によると、素戔嗚命が朝鮮半島から帰ってきた時に荒魂は出雲国に鎮まり、和魂(にぎみたま)は7代孝霊天皇45年(3世紀後半)に一旦対馬に鎮まった後、29代欽明天皇元年(540年)に現在地近くに移り鎮まった。

810年に現在地に遷座し、嵯峨天皇より正一位の神階と日本総社の称号を贈られた。


記紀には、素戔嗚命(140年頃-200年頃)が猛々しい暴れ者として描かれている。これは、663年の「白村江の戦」により、日本軍が唐・新羅連合軍に敗れ、百済の再興に失敗、1万名もの戦死者を出したことによる。

古事記は712年の成立、日本書紀は720年の成立だから、白村江の戦から50年余りしか経っていない。新羅と強いつながりを持つと云われる素戔嗚命に対する反感が非常に高い時期に記紀が編纂された。

しかし、それから90年ほどが過ぎて、嵯峨天皇は歴史を冷静に見直し、素戔嗚命の名誉回復を図った。

尤も、一般庶民にとっては白村江の戦と素戔嗚命を結び付ける考え方など全くなく、相変わらず昔からと同じように素戔嗚命の人気は高く、全国の神社で祀られ崇敬されていた。

嵯峨天皇は50代桓武天皇(736年-806年)の第2皇子で、第1皇子が51代平城天皇(へいぜいてんのう、774年-824年)となった。平城天皇と嵯峨天皇の母は、桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)。

809年に平城天皇が上皇となり、嵯峨天皇が即位した。しかし、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の関係は不穏な状態で、嵯峨天皇と平城上皇が対立し、「薬子の変(くすこのへん)」なども起きた。

薬子の変は坂上田村麻呂に鎮圧させたが、嵯峨天皇は情報漏洩の反省として、巨勢野足(こせののたり、749年-817年)や藤原冬嗣(ふじはらのふゆつぐ、775年-826年)らを採用し、蔵人頭(くろうどのとう)を設置して機密を守った。

更に、都の治安を守るために検非違使(けびいし)を設置した。

嵯峨天皇は、干ばつなどによる財政難や、皇族が増えすぎて官職に就けない皇族が多くなったことにより、皇族の人数を減らすための臣籍降下(しんせきこうか)を行った。

皇位継承の可能性がない皇族に姓を与えて臣籍降下させることは皇親賜姓(こうしんしせい)と云って、桓武天皇も100名ほどを対象に実施した。

更に、出家させることにより、皇族を減らす方法も取られた。

これは、皇位継承者を安定的に確保するために、多くの妃に皇子・皇女を産ませた結果でもある。現在の皇室が抱える皇族減少問題とは全く逆の現象になっていた。

第二次世界大戦後、皇籍離脱が行われたが、GHQによる皇室財産没収と共に、皇室弱体化が狙いであった。GHQが日本を支配するための新憲法もそのまま現在まで機能し続けている。

平安時代に皇親賜姓をした元皇族は、地方の武士や豪族になるのが通常であった。

「源氏」は嵯峨天皇が814年に皇子3名に皇親賜姓を行ったことに始まる。一番有名なのは56代清和天皇の清和源氏でしょうか。源頼朝(1147年-1199年)の時代に武門の棟梁として鎌倉幕府を開いた。その他、59代宇多天皇の宇多源氏、62代村上天皇の村上源氏なども出現し、21の流派ができた。

「平氏」は50代桓武天皇の桓武平氏、54代仁明天皇(にんみょうてんのう)の仁明平氏、55代文徳天皇(もんとくてんのう)の文徳平氏、58代光孝天皇(こうこうてんのう)の光孝平氏がある。

桓武平氏の嫡流である伊勢平氏の平清盛(1118年-1181年)が棟梁となり、日本初の武家政権を樹立した。

古代史研究でよく参考にされる「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」は嵯峨天皇が編纂を命じた氏族名鑑である。

嵯峨天皇は823年に53代淳和天皇(じゅんなてんのう、786年-840年、桓武天皇の第7皇子)に譲位し、上皇になってからも権威を発揮して、政治的な安定を図った。

淳和天皇の母は桓武天皇夫人の藤原旅子(758年-788年)で、平城天皇・嵯峨天皇は異母兄となる。

嵯峨天皇の信頼を得ていた空海(774年-835年)が、離宮の嵯峨院(京都御所の8km西)に五大明王を安置した。876年に淳和天皇の皇后が離宮を寺に改め、大覚寺(真言宗大覚寺派の本山)とした。淳和天皇の皇后は嵯峨天皇皇女の正子内親王(810年-879年)である。

大覚寺の西北650mの右京区北嵯峨朝原山町に円丘の嵯峨天皇御陵がある。

京都市右京区嵯峨朝日町23に鎮座の車折神社(くるまざきじんじゃ)は、嵯峨天皇と関係が深く、清原頼業(1189年没)が祭神で、境内社の芸能神社には天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られている。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2019-03-21 09:06