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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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ヒッタイトより1,000年古い鉄の塊

先日のテレビ朝日の報道によると、

『世界史の常識が覆るかもしれない発見です。紀元前に鉄器を用いたとされるヒッタイト帝国の遺跡で日本の調査団が人工的に作られた鉄の塊を発見した。

アナトリア考古学研究所・大村幸弘所長は、「鉄というのは3200年前から3300年前にあるというのが一般的だった。それよりも1000年古い層から鉄が見つかりだしてきて、それが人工のものだというので、これは今までの歴史とは違うなというのが出てきた。そういう意味ですごく価値がある。」と云う。

トルコ中部にある遺跡で一昨年(2017年)、日本の調査団が4200年前から4300年前の地層から世界で最も古い部類に入る人工の鉄の塊を発掘した。これまでの定説では、3200年前から3300年前にこの地域で栄えたヒッタイト帝国が鉄の製造を始めて、製造技術を独占し、周囲を征服したとされている。

しかし、今回、見つかった鉄の塊はそれよりも約1000年前のもので、成分もこの地域の鉄鉱石とは違うことが分析で明らかになった。

鉄の塊が見つかった地層では古代中近東の様式とは違う木造建築物の遺構も見つかっていて、調査団は、これまで考えられていたよりも前にヒッタイトとは違う民族が鉄の製造を伝えた可能性もあるとみて注目している。』と報道された。

***

発見現場のトルコ共和国は、南を地中海、西をエーゲ海とマルマラ海、北を黒海に囲まれている。この地域は「小アジア」と呼ばれるが、「アナトリア」とも呼ばれている。東ローマ帝国時代にギリシャ語で「アナトリコン(日出る処)」と呼ばれたのが「アナトリア」の名称由来となった。「日出る処」は日本と一緒ですね。

トルコの中央部はアナトリア高原で標高は800mから1200m。日本の中国山地ほどの高さの高原で、閉鎖型盆地である。トルコ東部の山は高く、東端には「ノアの箱舟」で有名なアララト山(5137m)があり、トルコの最高峰である。

アナトリアは古代から文明が栄え、南部地方には9500年前~8300年前頃の世界最古の都市遺跡・チャタル・ヒュユクがあった。新石器時代から金石併用時代まで続く遺丘となっている。

4000年ほど前に、このアナトリアに突然現れたインド・ヨーロッパ系の最古とされる民族・ヒッタイトがハットゥシャシュ(ハットゥシャ)を王都として、鉄器を使用する一大帝国を築いた。

このヒッタイトが現れる前段階の、5000年前に先住民「ハッティ」がアナトリア半島中央部に居住していた。この民族はインド・ヨーロッパ系ではなく、周辺の言語とも違う独自の言語を話し、膠着語であった。メソポタミアのシュメール人との関連を調べる必要がある。シュメールもハッティと同じく4000年ほど前に滅亡した。

旧約聖書によると、4000年ほど前にアブラハムがシュメール(イラク)のウルからハラン(トルコ)に移り、更にカナン(イスラエル)に移動した。このアブラハムの移住は、私見ですがシュメールとハッティの滅亡と関係があると考えています。

ハッティ人は鉄を発明した民族で、これが人類の鉄使用の最初だと考えられる。

ヒッタイト人が4000年ほど前に北方からやってきて、アナトリアのクッシャラに定住し始め、3800年ほど前にクッシャラの王ピトハナと子のアニッタがアナトリア征服に取り掛かった。

ピトハナ王とアニッタ大王はアナトリアを征服して先住民「ハッティ」の鉄を独占し、ヒッタイトの文化として後世に伝えた。(粘土板のアニッタ文書による)

当時の鉄は金よりも貴重であった。

そのヒッタイトも3200年ほど前に滅亡する。

トルコの首都アンカラの東方約150kmにボアズキョイという小村があり、南西の丘上に全長4kmに及ぶ城壁跡や獅子の石像が守る巨大な城門などが確認されている。

1906年、ドイツの考古学者フーゴー・ヴィンクラー(1863-1913年)がボアズキョイ発掘調査を行い、楔形文字が刻まれた大小1万片の粘土板文書の大書庫を発見した。そこでヴィンクラーは、このボアズキョイこそ、ヒッタイトが創り上げた王都ハットゥシャシュであるとし、4000年前のアナトリアの歴史が明らかになった。

この粘土板文書は「ボアズキョイ文書」と呼ばれ、このボアズキョイ遺跡は1986年に世界遺産登録された。ヒッタイトの滅亡により製鉄法が公開され、古代オリエントは青銅器時代から鉄器時代へと移っていく。

赤のアイコンがボアズキョイ


ヒッタイトの滅亡により製鉄法が各地に拡がっていったが、この製鉄法は直接製鉄法(塊錬鉄製鉄法)と云って踏鞴製鉄の一種で、比較的低温(800℃位か)で鉄塊を製造し、鉄塊を再度加熱製錬・鍛造(ハンマーで叩く)する方法であった。この製鉄法は日本にはオリエントから南周りでインドから江南(揚子江周辺地)経由で伝わった。江南は青銅器文化が盛んであったが踏鞴製鉄も行われていた。20181030日投稿の「金糞(かなくそ)」をご参照ください。

    

日本の古代における「踏鞴製鉄」はこの直接製鉄法で、江南人(倭人)の渡来により弥生時代の始まりとなる。弥生時代の初期から水田稲作が行われ、青銅器と鉄器が同時に製作された。

弥生時代の支配者は製鉄族で、記紀に記されている素戔嗚尊(西暦140年頃-200年頃)がその最高位にあった。製鉄族は配下に手工業の職人、海人族、稲作農民などを置き、海外や列島における交易により利益を得ていた。武器製造や軍事面にも力を入れて、地域同士を結び付ける同盟関係や服従関係により列島全体の支配を強めた。

オリエントから中央アジアを通り、華北の中国にも製鉄法が伝わってきた。当初は中国も直接製鉄法で製鉄していたが、製陶技術により1200℃以上の高温を出すことができていたので、鉄鉱石を高温で加熱・溶融して銑鉄を製造、再度加熱溶融して炭素を除いて鋼を造る溶融銑鉄製鉄法(間接製鉄法)が紀元前2世紀の前漢時代に完成した。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2019-03-30 09:03