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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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メソポタミアのウバイド人

チグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアに古代のメソポタミア文明が発祥した。最初に、「ウバイド文化」がBC5,500年頃に発生し、BC3,500年頃まで続いた。現在のイラク南部から発生して中部、北部へと発展していった。

ウバイド(Ubaid)では灌漑農業が行われ、銅器が使われたが文字はなかったと考えられる。川や海岸での移動には「葦舟(あしぶね)」が使われた。

楔形文字の発明・使用は、ウバイド文化の次に始まった「シュメール文明」からになる。




メソポタミア南部は川の氾濫による肥沃な土地があるが、雨量の少ない乾燥地帯で森林がなく、鉱物資源もなかったので、人類が生活するには厳しかった。

そんなメソポタミアでウバイド人は灌漑農業を始めて、運河を造り、農具を改良、余剰農産物を輸出して必要な物資を輸入した。これにより、ウバイド文化が開化し、人口も増大していった。

また、集落の中心に神殿を設け、宗教的儀礼が行われた。ウバイド文化は周辺地域に拡散し、現在のシリア、トルコ、レバノン、イスラエル、アラビア半島沿岸部まで拡がった。

ウバイド人は土器を造る時に「ろくろ」を使ったが、ろくろを起源としてBC5,000年以上前に車輪が発明された。

車輪から水車が発明され、灌漑や粉ひきなどに使われた。更に、荷車の発明により物資の運搬が楽になった。

BC2,500年頃になると、牛馬に引かせる荷車を改良した戦車(チャリオット)が造られた。戦車も改良が進み、シュメール、ヒッタイト、イスラエル、アッシリア、エジプト、ペルシャ、ローマ、インドなどでは、戦車で戦いが行われるようになった。

イラク南部のテル・アル・ウバイドという遺丘(いきゅう、テル)で遺跡が発見された。「遺丘」とは同じ場所に何度も繰り返し集落や都市が築かれ、層が重なって丘のように盛り上がった状態の遺跡である。

ウバイド文化初期の「ウバイド1期(エリドゥ期)」のBC5,500年-BC4,800年には、海岸線周辺に集落を築いた。

次の「ウバイド2期(ハッジ・ムハンマド期)」のBC4,800年-BC4,500年には、運河網が張り巡らされ、灌漑農業により効率的に収穫が増大した。

そして、「ウバイド3期、4期」のBC4,500年-BC4,000年には、急速に都市化が進み、メソポタミア全体に拡がっていった。

農業、遊牧、漁労が分業で行われ、中東各地と盛んに貿易を行った。

また、集落の中央には大きな定型的神殿が築かれ、神官が祭祀を執り行い、集落の中枢になっていった。神殿は日干しレンガで造られたが、集落の家は葦を束ねてその上に泥を塗って乾かして造った。集落の家もやがて日干しレンガで作られるようになる。

ウバイドの政治的・経済的・文化的拡大は、周辺地域を支配したり闘争したりせず、平和的・協調的な思想により拡がったと考えられる。女系社会だったようだ。

しかし、BC3,800年頃から気候の乾燥が始まり、メソポタミアでは農業効率が悪くなり、BC3,500年頃にウバイド人はメソポタミアを去っていった。

ウバイド文化のあとのメソポタミアには、シュメール人がBC3,500年頃に最古の「都市文明」であるウルク文化を始め、楔形文字や青銅器を発明し、多数の都市国家を造った。

古代都市ウルク(Uruk)は旧約聖書の創世記にはエレク(Erech、「私は行く」と云う意味)と記されている。ウルクは現在のイラク(Iraq)の国名由来になっている。

ウバイド人は域内でも周辺地域でも協調的・平和的に振る舞ったが、シュメール人は闘争的で、都市国家間の紛争が絶えず、力が衰え、BC2,350年頃にはアッカドのサルゴン王に支配された。シュメール人はBC2,000年頃に東方のインダス川流域に逃亡する。メソポタミアでは多くの国家・民族の興亡が繰り返された。

私見ですが、シュメール人はメソポタミアに来る前はインダス川流域にいたと考えています。シュメール人はインダス川の洪水伝説をメソポタミアに引き継ぎ、シュメールの「ギルガメシュ叙事詩」、旧約聖書の「ノアの箱舟」などが記されたのではないか。

メソポタミアから逃亡したシュメール人は元のインダス川流域に戻った。「エデンの園」はインダス川流域のことか。

インダス文明はBC2,500年頃からBC1,500年頃までの古代都市文明で、モヘンジョダロやハラッパーの遺跡が有名。民族はドラビダ系と考えられ、縄文人との関連性もある。

BC3,500年頃にメソポタミアから去っていったウバイド人はどこへ行ったのか。

落合莞爾氏(おちあい かんじ、1941年~)によると、ウバイド人はメソポタミアを出て東西に分散し、西へ向かった集団が現在の英国に落ち着いてケルト人(スコットランド人、アイルランド人など)になり、東に向かった集団が日本までやってきて、皇室との縁が深いと云う。

ウバイド人が列島に来たのかどうか、古代ケルトと縄文の共通点を調べてみよう。

霊魂不滅、生贄(人身御供、人柱)、渦巻き紋、アニミズム、太陽信仰、神話・民話の類似、土偶、女系社会、文字がないので語り部の口承など、共通点は多い。

縄文を色濃く引くアイヌの「熊祭り」が古代ケルトにもあったようだ。

縄文時代よりも新しいと思うが、民謡の音階が似ている。日本の家紋「結三柏(むすびみつかしわ)紋」とケルトの「トリケトラ」は、驚くほどよく似ている。

考古学者・歴史学者の松木武彦氏(1961年~)はテレビにもよく出演して歴史の解説をしているが、著書に「縄文とケルト-辺境の比較考古学、なぜか似ている日本とイギリスの遺跡たち」がある。

ウバイド人がメソポタミアを去った頃の日本列島は縄文時代中期で、ウバイド人が列島に来たのであれば縄文文化にも影響を与えたと考えられる。

この頃の縄文集落は規模が大きくなり、土器も大型になる。祭祀用の道具が作られ、祭壇も登場する。

更に時代が下ると、壺に海水を入れて煮沸する製塩が盛んになり、職として専業化する。物々交換の交易も専業化する。この専業化・分業化はウバイドの文化を取り入れた結果かもしれない。

縄文遺跡から環状列石や巨大木柱も発見されている。

18世紀に始まった民主主義と自由主義の体制は、最近少々くたびれた感じがしないでもない。しかし、それに代わる体制を提示できる人もいないので、世界は行き詰まっているように見える。この情勢の中で、ケルトと縄文の「古代ウバイド思想」に基づいた「新しいアイディア」が、日本から発生することを期待できるのではないか。

戦争に負けた国は、王や支配者が抹殺されるか、国外へ逃亡する。第二次世界大戦で敗北したドイツのヒトラー(1889年-1945年)は自殺した。

無条件降伏した日本では、昭和天皇(1901年-1989年)が占領軍の最高司令官ダグラス・マッカーサー(1880年-1964年)に会い、全ての責任は私にあると云った。それでも日本の皇室は、弱体化されながらも滅ぶことなく、2,000年も連綿と続いている。

それは、日本の皇室がヨーロッパの皇室と「ウバイド繋がり」だからでしょうか。占領軍のマッカーサー元帥がスコットランド貴族の血筋であることも関係するのでしょうか。

印南神吉  メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp   


by enki-eden | 2019-07-03 00:38