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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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壱岐の弥生時代

壱岐市教育委員会社会教育課文化財班の松見裕二氏が、720日(土)に「魏志倭人伝に記された一支国の世界」について、兵庫県立考古博物館で講演されました。

松見氏は佐賀県生まれ、別府大学文学部史学科卒業後、福岡県小郡市嘱託職員として、壱岐市芦辺町役場に学芸員として勤務。

2006年に長崎県文化・スポーツ振興部に出向、2009年より「壱岐市立一支国博物館」の学芸員として業務をされています。

スポーツマンらしく、はつらつとした好感の持てる方で、各地で講演会に出演されています。

長崎県壱岐市は、人口26,500人の4町で構成され、九州と朝鮮半島の間の玄界灘にある島で、対馬島とともに古代より東アジアとの交流の拠点として重要な役割を担っている。

壱岐市は、本島に加え、4島の有人島、17島の無人島からなり、東西15km、南北17kmの島である。

阿蘇カルデラは東西18km、南北25kmなので、いかに大きなカルデラか分かる。屈斜路カルデラは更に大きい。(青い文は印南神吉の意見です。)

壱岐島は対馬島の5分の1の大きさで、玄武岩質でできているので地盤は比較的安定している。

壱岐島への交通手段は船が主で、芦辺港と郷ノ浦港から博多港(76km)もしくは対馬島厳原港(76km)まで高速船で60分、フェリーで130分、石田印通寺港から佐賀県唐津東港までフェリーで100分かかる。

飛行機は壱岐空港から長崎空港まで30分で行ける。

壱岐島は、平戸藩「松浦氏(松浦水軍)」の所領であったので、明治の廃藩置県で「平戸県」となり、府県統合で「長崎県」となった。

対馬島は、厳原藩「宗氏」の所領であったので、廃藩置県では「厳原県」となり、1871年に佐賀県と統合して「伊万里県」となる。翌年に、長崎県に転県した。

対馬も壱岐も福岡県が近く、関係も深いので転県を希望している住民もいるが、政治的圧力で実現していない。

対馬は男性の島と云われるのに対し、壱岐は女性の島と云われる。


魏志倭人伝には一大国(一支国)について、57文字が記されている。「対馬国から南に千余里、海を渡ると一大国に至る。一大国も対馬国と同じく主官の卑狗、副官の卑奴母離がいる。

島の大きさは三百里ほど、竹木が茂り、林が多い。三千ばかりの家があり、島内には米を作る田地があるが、みんなが食べるだけの量はなく、南や北と交易をして暮らしている。」

国特別史跡 原の辻(はるのつじ)遺跡

長崎県壱岐市芦辺町・石田町

弥生時代全般~古墳時代初頭の遺跡(2200年前から1600年前)。

原の辻遺跡は壱岐島の南東側、長崎県で2番目に広い平野である「深江田原(ふかえたばる)」にある「一大国(一支国)の王都」、「海の王都」。

遺跡の近くを幡鉾川(はたほこがわ)が流れ、流域には「物部田原」「木田田原」「深江田原」といった平野部が広がり、下流には「内海湾(うちめわん)」が広がっている。

原の辻遺跡は丘陵の最頂部(標高18m)にある祭儀場を中心にして、標高10m前後の丘陵上に居住域が広がり、その周りを多重の環濠で取り囲んだ大規模環濠集落跡である。

海を渡る渡来人とそれを迎える倭人との対外交流の拠点となった舞台が「原の辻遺跡」だった。幡鉾川の横に船着き場があった。大きな船でやってきて、内海湾で小さな船に乗り換えて幡鉾川に入り、船着き場に到着、すぐ前に「原の辻遺跡」がある。


「原の辻遺跡」出土の鉄製品は、農機具、工具、武器など実用品である。青銅製品は、青銅鏡、銅剣、銅銭、鋤先、権(棹秤のおもり)、銅鏃、銅釧などがあり、祭器が多い。

中国から占いが伝わり、ト骨が出土しており、ヒビの方向で吉凶を占った。

出土した「人面石」は祖霊祭祀の場で使われた祭器と考えられる。

カラカミ遺跡

長崎県壱岐市勝本町立石東触・仲触(ひがしふれ・なかふれ)、壱岐島の北西部。

2200年前~1700年前の遺跡で、原の辻遺跡とは対照的に30mから90mの高台にある環濠集落で、現在の香良加美神社を中心にして、扇形に拡がっている。漁業や交易に従事していた。

V字型の環濠(大溝)で囲まれていた。

炉跡や鉄製品加工用石製道具が発見されており、鍛冶作業が行われていた。

遼東系の瓦質土器が出土し、「周」と云う文字が書かれていた。周は人名と考えられる。

日本最古の家猫の骨が出土、弥生時代に渡来人が家猫を持ち込んだ。

一支国の王都として、交易の盛行とともに栄えた「原の辻遺跡」も古墳時代になると衰退し、滅亡したと考えられる。交易の海路が変更され、壱岐島を経由せずに対馬島から直接博多湾岸の奴国へ航行するようになった。

潮待ちや暴風避けのために壱岐島に立ち寄ることはあったと考えられるが、単なる通過点に過ぎなかった。海上交易都市ならではの盛衰の歴史である。

対馬国は奴国と連携し、一支国(壱岐国)は伊都国と連携していたので、北部九州の中心国である奴国との繋がり方に違いがあった。

***

印南神吉の意見

弥生時代から現代にいたるまで2300年間、九州の中心地は常に博多(筑前国)であった。博多湾岸一帯には揚子江(長江)周辺からやってきた呉人が奴国を建国、紀元前1世紀の首長である「五柱の別天神(ことあまつかみ)」と1世紀から2世紀の奴国王である「神世7代」が基盤を築いた。

初代奴国王の国常立尊は偶然にも西暦元年出生で、奴国の始まりは西暦元年となる。4代目奴国王の角杙尊(西暦60年頃出生)が北部九州28ヵ国を統率し、倭王帥升となり7代目の伊弉諾尊まで続く。呉人のY染色体ハプログループはO1b2(O2b)である。

西暦180年代の倭国乱の責任を取り、伊弉諾尊が淡路島に隠遁した後の倭王は、卑弥呼(179年-247年)と臺與(235年頃-295年頃)の女王が務めた。

倭国乱の影響により、西暦185年頃の饒速日東遷、彦火火出見が204年に筑紫を出発し、211年に大和国で初代神武天皇として即位、270年頃に臺與が五十瓊殖(いにえ、10代崇神天皇)を伴って大和国に東遷、列島の中心地が北部九州から大和国(奈良県)に遷った。

臺與は280年頃に箸墓古墳を完成、九州から運んだ卑弥呼の遺骸を後円部に埋葬、古墳時代に入っていく。臺與も295年頃に亡くなり、前方部に埋葬された。

***

古代史と関係ありませんが、大丸須磨店で企画されていた「夏休みパラダイスin須磨」で予定の「防衛省 自衛隊の車両がやってくる」(7/2728開催)イベントが中止されました。

大丸須磨店は「諸般の事情により、急遽中止させていただくこととなりました。お客様には大変ご迷惑をおかけすることとなり、誠に申し訳ございません。」と云っている。

中止させたのは「新日本婦人の会 兵庫県本部」で、須磨支部は「朗報」だと投稿した。これに対して賛成意見、反対意見のネット議論が起きている。

「神戸は震災復興で自衛隊に助けられた」、「子どもから老人まで自衛隊を知ってもらう機会が大切」と批判する声もある。

中止を申し入れた新日本婦人の会は「災害救助に当たる自衛隊を批判しているのではない。私たちは安保法制成立や改憲の動きの中で、自衛隊の在り方に危機感を持っている」と云っている。

美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長は、「実に情けない。みんな自衛隊には感謝しているんだよ」。

「ヒゲの隊長」として知られる元自衛官の佐藤正久参院議員(自民)は「国民から自衛隊を遠ざけるのではなく、自衛隊を国民に知ってもらうことは極めて大事」と投稿し、“イイネ”が多数寄せられたと云う。

私の個人的な意見は、賛成するも自由、反対するも自由だと思いますが、大丸須磨店が偏ったイデオロギーの10名の中止要求に応じ、中止してしまったことが大問題だと考えています。

大丸須磨店長の事なかれ主義は自己保身の表れで、夏休みの子どもの楽しみを奪われた母親からクレームを受けていることでしょう。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2019-07-31 00:02