人気ブログランキング | 話題のタグを見る

古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

秋田物部文書

唐松神社(からまつじんじゃ)が秋田県大仙市(だいせんし)協和境(きょうわさかい)下台(しただい)84に鎮座している。

唐松神社は、神功皇后(321年-389年)が363年の新羅遠征後、物部胆咋(もののべのいくい、饒速日命9世孫)と共に創建したので「韓服宮(からまつのみや)」と呼ばれていたと云う。

祭神は、息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)と軻遇突命(かぐつちのみこと)、軻具突命の別名は愛子大神で、当地の物部氏が祀る火結神(ほむすびのかみ)となっている。

当社は女性の生涯を守る「女一代守神」で、縁結び、子宝、安産の神として「境の唐松さま」と呼ばれ親しまれている。

江戸時代の中期に、子授け・安産を願って唐松講(八日講)が結成され、出羽国で知られていたが、やがて全国に広がったと云う。

当社は、中世より地元の豪族の後ろ盾を持たず、近世は氏子・個人・一般人に崇敬され支えられている。

神功皇后の新羅遠征に従軍した物部胆咋(もののべのいくい、饒速日命9世孫)が、神功皇后の腹帯を作り、出産後に腹帯を拝受し、当社のご神体にした。

新羅遠征の帰路、神功皇后は男鹿半島から当地に立寄り、岩見川から船岡に上陸し、船玉の大神を祀った。唐松神社の北東5kmに船玉神社が鎮座(大仙市協和船岡向小沢)、祭神は神功皇后の新羅遠征を守った住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)。




男鹿半島の形は、地元では「グッドジョブ」の親指を立てた形だと云っているらしい。グッドジョブを日本語に訳し、「開運 なんでも鑑定団」鑑定士の中島誠之助氏が「いい仕事してますね~」と言って褒め言葉として使っている。

私見ですが、「男鹿半島」の「おが」は、北部九州の遠賀川(おんががわ)から当地にやってきた物部氏に因んで名付けられた「おんが半島」が由来だと考えています。

秋田県でも遠賀川式土器が発見されており、遠賀川地区から搬入した土器と、模倣して当地で作成した土器がある。

先代旧事本紀の天皇本紀神武天皇元年1115日の記事によると、

「宇摩志麻治命は御殿の内に天璽瑞宝を斎祀り、天皇と皇后のために御魂を鎮めて、御命の幸福たることを祈った。いわゆる鎮魂祭はこの時に始まった。

およそ天の瑞宝とは、宇摩志麻治命の父・饒速日尊が天神から授けられて来た天つしるしの十種の瑞宝のことである。」とあり、天皇皇后の御魂を鎮める鎮魂祭で、現在にまで続いている。

物部氏の「石上神宮」の「鎮魂祭」が秋田の物部氏にも残っている。十種の神宝、天津祝詞、神宝をもって「ふるべ ゆらゆらと ふるべ」と唱える古代の神事である。

唐松神社の鎮魂方法は、身振りと呼吸を整える神事で、十種の神宝の一つである「生玉」を掌に包んで振り、ヒフミの天津祝詞(あまつのりと)を呪言する。

鎮魂祭は、越後国一宮の弥彦神社(天香山命)、石見国一宮の物部神社(宇摩志麻遅命)でも行われている。  

唐松神社の秋田物部氏は、代々の当主が「物部文書」を一子相伝で継承し、余人に見せることを禁じてきた。「宇佐家伝承」と同じである。     

1984年、唐松神社の物部長照名誉宮司が物部文書を公開した。それを進藤孝一氏(1934年生)が「秋田物部文書伝承」として無明舎から出版した。

物部文書は、①韓服宮(からまつのみや)物部氏記録、②韓服神社祈祷禁厭之伝 物部氏、

③物部家系図からなっている。

物部文書では、神武天皇(181年-248年)が大和に入る以前に、物部氏の祖神である「饒速日命(にぎはやひのみこと)」が、秋田県と山形県の境にある鳥見山(鳥海山、2236m)に降臨し、日殿山(唐松岳)に「日の宮」を建てて居住し、現在の「日の宮」は唐松神社境内に遷り、「唐松山天日宮(からまつさん あまつひのみや)」として祀られている。

その後、饒速日命は、新天地を目指して大和国(奈良県)へ移住したと云う。

   

私見ですが、饒速日命が北部九州から東北へ行き、次に大和へやってきたと云うのは逆で、饒速日命東遷は西暦185年頃で、西暦209年に神武天皇(181年-248年)に大和国(奈良県)を譲ってから東北(秋田県)に移住した可能性が高いと考えています。

「天村雲命」は筑紫→大和→伊勢へ行き、天香語山命は更に尾張→越後へ行った。饒速日命は更に東北まで行ったのかもしれない。      

或いは、饒速日は大和で亡くなったが、後裔の物部氏が東北へ行ったことは間違いないでしょう。

唐松神社の宮司を務める秋田物部氏の伝承では、「物部文書」の1つ「韓服宮 物部氏記録」によると、物部守屋(587年戦死)の一子、那加世(なかよ、秋田物部初代)が、物部尾輿(守屋の父)の家来の捕鳥男速(ととりのおはや)に匿われ大和から東北地方へ逃れた。

出羽国逆合(協和境)で櫃(ひつ)が動かなくなって立ち往生したので、土地の由緒を尋ねると、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)を祭る韓服林(からまつばやし)という場所であると教えられ、社殿を修復した。

那加世は饒速日命と物部胆咋(もののべのいくい、饒速日命9世孫)が住んだ出羽国の逆合(協和町境)に定住した。

「物部家系図」では、物部氏が逆合(協和境)に定着したのは天元5年(982年)の23代物部長文の時で、同年に天地創成の神や天神地祇を祀り、長徳2年(996年)に氏神である火結神(迦具土神)を祀ったと云う。現在の宮司は63代目の物部長仁(さきひと)氏。

物部氏の職業は祭祀、鉱物の採掘、金属器製造、馬の飼育などであった。饒速日命(165年頃-225年頃)を祖として祀る物部氏は、金属職人が多かった。

鉱山には職人が集まり、集落を形成していった。東北の神社や鉱山の多くに、物部氏の伝承が残っている。北部九州でも同じ。

その後、崇仏戦争に敗れた物部守屋(587年戦死)の一子那加世(なかよ)が東北の地に移住し、数代の後、元宮である唐松山頂に饒速日命を祀ったとされる。

延宝8年(1680年)に、藩主佐竹義処により、山頂から現在地に遷座。 今でも、唐松岳に元宮が鎮座している。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2019-12-11 21:14