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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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蝦夷征討(えみしせいとう)

日本書紀によると、12代景行天皇40年夏、東国の蝦夷が背いて辺境が動揺した。

時代は西暦330年頃と考えられる。皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと、302年頃-332年頃)は西国の熊襲退治から帰って来て数年しか経っていなかったが、東国の蝦夷征討の将軍として再び出発した。

日本武尊は伊勢神宮に詣で、神宮斎主で叔母の倭媛命(やまとひめのみこと)に挨拶した。倭媛は日本武尊に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授け、無事を祈った。

駿河の焼津(やいず)に着いた日本武尊は、賊の火攻めにあったが、天叢雲剣で逃れた。それで天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と云われた。

日本武尊は相模から上総(かみつふさ、千葉県)に船で渡ろうとして、暴風に遭い漂流した。その時、日本武尊に同行していた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に飛び込み、人身御供として嵐を鎮めた。

弟橘媛は穂積氏の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘で、日本武尊の船団運用は穂積氏が担っていたと考えられる。全体の指揮官は物部大咩布(もののべのおおめふ)であった。20181225日投稿の「物部大咩布命」をご参照ください。   

日本武尊は陸奥国(みちのくのくに)に入り、蝦夷の支配地に入ると賊は恐れて服従した。

陸奥国の前方後円墳を調べると、3世紀から4世紀の古墳時代前期に築造されたものが多いが、後期にも大型古墳が築造されている。

東北最大の雷神山古墳(宮城県名取市植松山1)が墳丘全長168m、4世紀末の築造、

亀ケ森古墳(福島県河沼郡会津坂下町青津)が全長127m、4世紀後半築造、

会津大塚山古墳(福島県会津若松市一箕町)が全長114m、4世紀末築造、鉄製品に加え三角縁神獣鏡が出土している。

玉山古墳(福島県いわき市四倉町玉山)が全長112m、4世紀半ばの築造。

杵ガ森古墳(福島県河沼郡会津坂下町稲荷塚)は3世紀末から4世紀初頭の築造で、墳丘長45.6mと小さいが、東北地方最古級の前方後円墳。

岩手県奥州市胆沢区(いさわく)南都田(なつだ)の角塚古墳(つのづかこふん)も、墳丘長45mと小さいが、列島最北端の前方後円墳で、5世紀後半築造、国の史跡になっている。

山形県にも稲荷森古墳(南陽市長岡稲荷森)があり、墳丘長96m、4世紀末築造。

日本武尊の東国遠征の結果として、東北地方が大和政権と密接に繋がり、前方後円墳が築造されていったことが分かる。

日本武尊は蝦夷平定後、各地を巡り、尾張国造の娘の宮簀媛(みやずひめ)を娶り長く留まった。日本武尊は草薙剣を宮簀媛の家に置いたまま、大和に帰る途中に伊勢の能褒野(のぼの)で病死した。2016111日投稿の「日本武尊の白鳥三陵」をご参照ください。

草薙剣は三種の神器の一つとして祀られ、熱田神宮(名古屋市熱田区神宮)の御神体となっている。    

10代崇神天皇(251年-301年)の皇子である豊城入彦(とよきいりひこ)を祖とする皇別氏族があり、その中の毛野(けの、けぬ)氏は、毛野国(群馬県と栃木県)を本拠地とした古代豪族である。

豊城入彦は崇神天皇の命により東国を治め、子孫の毛野氏の支配地より北は蝦夷地(えぞち)であった。豊城入彦の母は遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)、紀伊国荒河戸畔(あらかわとべ)の娘で、崇神天皇の妃になった。

日本武尊が東国遠征に行った時には、毛野氏は豊城入彦の孫・彦狭島王(ひこさしまのみこ、初代上毛野国造)か、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのみこ)だったと考えられるので、日本武尊にとっては大いに手助けになったのではないか。作戦や道案内、援軍の加勢もあったであろう。

御諸別王の名が、出雲の大国主命と少彦名命に縁のあるような気がする。群馬県前橋市三夜沢町の赤城神社(上毛野国二宮)の祭神が、豊城入彦命と大己貴命になっている。栃木県宇都宮市の二荒山神社(下毛野国一宮)の祭神が、豊城入彦命・大物主命(大国主命)・事代主命となっている。

豊城入彦命が出雲の大己貴命を信仰していたようだ。

日本武尊の蝦夷征討後も毛野氏は、蝦夷地の支配・管理運営に勤め、善政をしいたと日本書紀に記されている。

毛野国は16代仁徳天皇の時代に、上毛野国(かみつけぬのくに、群馬県)と下毛野国(しもつけぬのくに、栃木県)に分かれた。後には上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)と呼ばれるようになる。

7世紀半ばの飛鳥時代に越国の国司であった阿倍比羅夫が、蝦夷征討の将軍として活躍し、658年には水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、660年には粛慎(みしはせ、北海道か樺太の蝦夷)とも交戦して勝利した。しかし、白村江の戦いでは662年に第二次派遣の征新羅将軍として水軍を率いたが、663年に大敗した。

唐は白村江の後、高句麗を攻撃した。668年に高句麗は滅び、唐に吸収された。

阿倍比羅夫の孫に阿倍仲麻呂(698年-770年)がおり、遣唐留学生として717年に長安に渡り高官として働いたが、帰国せず唐で亡くなった。

阿倍仲麻呂が753年に唐の都・長安で、故郷の大和を想って詠んだ歌、

   天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

阿倍比羅夫の生没年は分からないが、阿倍比羅夫と阿倍仲麻呂の活躍時期の違いを考えると、仲麻呂は比羅夫の孫ではなく、4世孫か5世孫くらいの開きがある。

日本列島では、8世紀から9世紀にかけても蝦夷との戦いは続き、坂上田村麻呂(758年-811年)が征夷大将軍として蝦夷征伐を行った。


印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2019-12-23 00:07