素戔嗚尊(すさのおのみこと)
素戔嗚尊の父の実名は布都、素戔嗚尊の子の大歳(饒速日命、165年頃-225年頃)は布留(ふる)、同じく子の倉稲魂(うかのみのたま、稲荷神)は宇迦(うか)。
大国主命(大己貴命、160年頃-220年頃)の実名は美具久留(みくくる)。
素戔嗚尊は主に出雲国東部を拠点にし、大国主命は西部を拠点にして全国展開した。素戔嗚尊は北部九州の倭王兼奴国王の伊弉諾尊(125年頃-190年頃)と西暦155年頃に親子の契りを結び、出雲国風土記には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」と記されている。
素戔嗚尊と大日孁貴(天照大神①、比売大神)は西暦160年頃に誓約(うけい)により5男3女が生まれ、素戔嗚尊は3女を引き取った。3女は後に宗像三女神として宗像大社に祀られる。
大日孁貴は5男を引き取ったが、素戔嗚尊は大日孁貴から次男の天穂日命を預けられ、出雲国に連れて帰り、出雲国東部の統治を任せる。天穂日命は出雲国造の祖となる。
素戔嗚尊と櫛稲田姫は「八岐大蛇(やまたのおろち)」退治の後、八重垣神社(島根県松江市佐草町227)に一時、籠もった。地名が佐草(さくさ)とあるように、当地は素戔嗚尊の子の青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこのみこと)の地盤だった。
当地で詠んだ素戔嗚尊の歌
八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣造る その八重垣を
八重垣神社は元々、佐草神社と称していたが、青幡佐久佐日古命が両親(須佐之男命、櫛名田比売命)を祀り、八重垣神社になったと考えられる。
「八重垣神社のサイト」に本殿内の壁画(素戔嗚尊と稲田姫命)が載っている。神紋は「二重亀甲に剣花菱(素戔嗚尊の紋)」。
稲田姫命の名は、出雲国風土記の飯石郡熊谷郷には「久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめのみこと)」と記されている。
素戔嗚尊と櫛稲田姫は、出雲国意宇郡(おうぐん)の佐久佐から須賀に移り宮を建てた。宮の跡は須我神社
(島根県雲南市大東町須賀260)になっている。祭神は須佐之男命と櫛稲田比売命。
大日孁貴(天照大神①)は西暦180年代に亡くなり(天岩戸に隠れる)、倭国乱となる。この頃、「ニュージーランドのタウポ山の大噴火」により、地球規模の天候異変が起き、世界的に混乱が続いた。
西暦190年にローマで穀物危機が発生した際、ローマ帝国は民衆に十分な食料を供給できなかった。結果、それまでコンモドゥス皇帝を支持してきた民衆が各地で暴動を起こすようになった。
皇帝は独裁暴君となり、多くの元老院議員の処刑を計画したが、事前に発覚し31才で暗殺されてしまい、ネルファ・アントニヌス朝の崩壊となった。
2世紀後半の気候異常により、ドイツ北東部に住んでいたゴート族・ブルグント族・サルマディア族のゲルマン人が寒冷の北欧から南欧に侵入し始めた。やがてこれが4世紀後半のフン族の侵入やゲルマン人の大移動(大侵入)に繋がり、ローマ帝国の東西分裂に繋がっていく。
ローマ皇帝の16代と17代の時代は、日本列島では倭国王兼7代目奴国王の伊弉諾尊(125年頃-190年頃)や素戔嗚尊(140年頃-200年頃)と同じ時代であった。
西暦181年にニュージーランドの「タウポ火山の巨大噴火」により、世界的な気候変動が起き、日本列島も例外ではなく、地球規模の動乱・戦争が起きた。タウポ火山は現在でも火山活動が活発に起きている。
素戔嗚尊の墳墓は熊野山(天狗山、610m、島根県松江市八雲町)の磐座だと云われる。出雲国一宮の熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451)の元宮斎場跡になっている。秀麗な神奈備山です。
天穂日命の墳墓は意宇郡(宍道湖と中海の南地域)にあると考えられるが、中海に面する安来市には「古代出雲王陵の丘(国の史跡)」や多くの墳墓群がある。
北部九州倭国の飢餓を避けるために、饒速日命が西暦185年頃に大部隊を率いて物部系、高皇産霊系、海人系などが大挙して大和国(奈良県)に東遷した。耕作地が広く、金属鉱脈も豊富な大和国に移住してきた。
伊弉諾尊は西暦180年代の倭国乱で失墜し、淡路島に隠遁、素戔嗚尊が200年頃に亡くなると、卑弥呼(179年-247年、天照大神②)が倭国の女王として201年に即位(天岩戸から再臨)した。
天照大神②(卑弥呼)と高皇産霊尊は、素戔嗚尊の後を継いだ大国主命に対して、北部九州の「葦原の中津国(古賀市、福津市、宗像市、遠賀郡、北九州市)」を放棄させ、倭国乱は治まった。
大国主命は出雲国(島根県)に帰り、少彦名命(すくなひこなのみこと)と共に播磨国など各地を開拓し、西暦220年頃に亡くなった。大国主命の墳墓については、次回に投稿します。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp