出雲の西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)①
出雲の斐伊川(ひいかわ)は船通山(せんつうざん、1,142m)から流れ出し、奥出雲の横田盆地をゆるやかに流れるが、山間部になると急流となって北へ下っていく。
中流域になると支流がいくつも合流し、盆地が点在するようになる。
下流域になると、上流からの土砂流入により出雲平野が出現した。土砂流入は上流で行われていた踏鞴製鉄による「鉄穴流し(かんなながし)」の影響も大きいでしょう。2013年10月30日投稿の「三木市立金物資料館」に鉄穴流しの風景を載せています。
斐伊川は出雲平野に入ると北東に流れを変え、宍道湖(しんじこ)に注ぐ。
西谷墳墓群は、島根県出雲市大津町(おおつちょう)にあり、2世紀末から3世紀(弥生時代後期)の墳墓群。斐伊川下流の西岸沿いの高さ40mほどの丘陵にある。
弥生時代後期の墳墓群であるが、7号墓は古墳時代初期の築造で、方墳に「造り出し」がついている。
墳墓の数は27基プラス5基(倍塚か)の32基、及び横穴墓群が3か所確認されており、国の史跡になっている。
墳墓のうち6基は「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」で、1号墓(20m)、2号墓(28m×45m)、3号墓(40m×55m、男女二人の木棺)、4号墓(26m×32m)、6号墓(8m×16m)、9号墓(55m×60m)である。
17基が方墳、4基が円墳になっている。
四隅突出型墳丘墓は、正方形の墳墓の四隅が突出していると理解していたが、長方形が多い。四隅突出部は儀式の時に昇り降りするためのようだ。
西谷墳墓群の南端に「出雲弥生の森博物館」がある。
四隅突出型墳丘墓の2号墓、3号墓、4号墓、9号墓は、弥生時代後期の2世紀から3世紀に出雲国を支配した王の墓と考えられており、築造順は3号→2号→4号→9号となっている。
その中でも大きな3号墓か9号墓が大己貴命(大国主命、160年頃-220年頃)の墳墓ではないかと考えられる。
3号墓からは300個以上の土器が出土し、墳丘上での儀式に使われた。土器の産地は出雲、吉備、越(北陸)のもので、遠方からも葬儀に集まった。墳墓は貼石で覆われていた。
3号墓の男王の木棺からは、厚くしかれた朱、鉄剣、ガラスのネックレスが出土、4本の太い柱跡がある。東5mに埋葬された女王の木棺からは朱や、ガラス玉・ガラス勾玉・石の玉を組み合わせたネックレスなどのアクセサリーが出土している。
3号墓、グーグルの地図で見ると左(西)の男王墓にはっきりと4本の柱跡が見える。
右(東)は女王墓。
出雲市がドローンで墳墓群を撮影した「PR動画」をご覧ください。
一番大きな9号墓の上には三谷神社が鎮座、祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)、別名は阿蘇大神、阿蘇津彦命など。
健磐龍命は、神武天皇の第2皇子・神八井耳命の皇子と云われ、神武天皇の勅により阿蘇一帯を統治し、阿蘇神社の祭神になっている。東向き社殿の楼門前に陵墓もある。
三谷神社は元々、500mほど南東の大津町上来原(かみくりはら)の三谷山にあって三谷権現と称していたが、池ノ内杓子山の式内阿須利神社を元禄13年(1700年)に合祀したので式内三谷大明神と称した。
しかし、明治5年に阿須利神社が再び独立・遷座したので三谷神社は荒廃した。更に昭和36年の水害によって社殿が流失したので、翌年に現在地の9号墓上に遷座した。
遷座した時には古墳であることは分かっていなかった。
三谷神社の神紋は「二重亀甲に三柏」で、境内(墳墓上)に稲荷社や祠も構えている。
現在の阿須利神社は、出雲市大津町3668に鎮座、主祭神は豊玉比古神、玉依比女神、豊玉比女神、大己貴神で、合祀神も多く境内社も多い。三谷神社の1.2km北西になる。
次回の「出雲の西谷墳墓群②」に続く
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp