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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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出雲の西谷墳墓群②

西谷墳墓群がある古代の地名は出雲国神門郡(かんどぐん)で、出雲大社のある出雲郡の南に位置する。神門郡は大己貴命(大国主命)と深い関係があり、出雲国風土記神門郡条によると、

朝山郷(あさやまごう)

神魂命(かみむすひのみこと、出雲の祖神)の御子・真玉著玉之邑日女(またまつくたまのむらひめ)が鎮座していた。

所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ、大己貴命)が真玉著玉之邑日女を娶り、朝毎に通ってきた。だから、朝山という。

出雲市朝山町の朝山神社には真玉著玉之邑日女命(神魂命の娘、大己貴命の妻)が祀られている。西谷墳墓群の4.4km南に鎮座している。

八野郷(やのごう)

須佐能袁命(すさのおのみこと)の御子・八野若日女(やのわかひめ)が鎮座していた。

所造天下大神(大己貴命)が八野若日女を娶り、屋を造らせた。だから、八野という。

滑狭郷(なめさごう)

須佐能袁命の御子・和加須世理比売(わかすせりひめ)が鎮座していた。

所造天下大神が和加須世理比売を娶り、通ってきた時に岩があり、非常に滑らかだった。そこで所造天下大神が「滑らかな岩だ」と云われたので南佐(なめさ)→滑狭(なめさ)という。

多伎郷(たきごう)

所造天下大神と多紀理比売の御子・阿陀加夜努志多伎吉比売(あだかやぬしたききひめ)が鎮座していたので、多吉(たき)→多伎という。

西谷墳墓群から東の方向に目を向けると、

仏経山(ぶっきょうざん、366m)が西谷古墳群のほぼ真東4.3kmにある。出雲市斐川町神氷(かんび)にある仏経山は、出雲国風土記出雲郡条に「神名火山(かんなびやま)」と記されている。麓に御井神社(木俣神、八上姫命)。

出雲国に神名火山は4か所あり、他の三山は、

意宇郡の神名樋野(茶臼山、171m、松江市山代町)、麓に真名井神社(伊弉諾神)。

秋鹿郡の神名火山(朝日山、342m、松江市東長江町)、麓に多芸神社(速玉之男命)と

弥多仁神社(大己貴命)。

楯縫郡の神名樋山(大船山、327m、出雲市多久町)、麓に多久神社(多伎都彦命、天御梶姫命)と熊野神社(伊邪那美命)。

西谷古墳群のほぼ真東9kmの雲南市加茂町岩倉には国史跡の加茂岩倉遺跡がある。1996年に発見され、日本最多の39口の銅鐸が出土・国宝に指定された。

出雲市斐川町神庭の神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき)は、西谷墳墓群の6.4km北東にあり、1984年から1985年に出土した358本の銅剣・6個の銅鐸・16本の銅矛は国宝に指定され、荒神谷博物館が併設されている。

西谷墳墓群から「夏至の日没方向」を見ると、出雲国一宮の出雲大社と日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)が鎮座している。出雲大社から見ると、冬至の日の出方向に西谷墳墓群がある。

出雲大社の祭神は大国主大神、日御碕神社の祭神は天照大御神と神素戔嗚尊。

雲南市三刀屋町(みとやちょう)給下(きゅうした)に三屋神社(みとやじんじゃ)が鎮座、祭神は大穴牟遅命(大己貴命)、素戔嗚尊、稲田姫命、脚摩乳命、手摩乳命。神紋は「二重亀甲に剣花菱」。

以前は、300m南の旧跡地に鎮座しており、飯石郡一宮と云われた。周りには松本古墳群3号墳など古墳が多い。

三刀屋町の10.5km北西に西谷墳墓群がある。

出雲国風土記飯石郡条の三屋郷(みとやごう)に、所造天下大神(大己貴命)の宮(御殿)がここにあるので三刀矢(みとや)と云うと記されている。後に三刀屋(みとや)と改めた。

三屋神社は、出雲国風土記に「御門屋社(みとやのやしろ)」、延喜式には「三屋神社(みとやじんじゃ)」と記されている古社で、大己貴命の御殿は三刀屋にあった。従って出雲大社の神紋も同じ「二重亀甲に剣花菱」になったと考えられる。

三刀屋は斐伊川と三刀屋川が合流することにより、扇状地(盆地)になっている。大己貴命の生誕地も飯石郡熊谷郷(くまたにごう、雲南市三刀屋町下熊谷)で、三屋神社の直ぐ南東の川向こうにある。

素戔嗚命の妃・久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ、奇稲田姫)が、出産しようとするときに、ここに来て「とても奥深い谷である。」と云われた。だから熊谷という。生まれた子の名は出雲国風土記には記されていない。






奇稲田姫が当地で産んだのは、素戔嗚尊の長男・八島士奴美(やしまじぬみ)だと考えられるが、先代旧事本紀の地祇本紀には大己貴神と記されている。亦の名を八島士奴美神、亦の名を大国主神、亦の名を清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠などと記されている。

大国主命は素戔嗚尊の末娘・須世理比売を妻としたから、末子相続で大国主命が素戔嗚尊の跡を継いだ。大国主命が八島士奴美であれば素戔嗚尊の長男になり、須世理比売とは母違いの兄妹になる。多重婚の古代ではよくある現象であった。

大国主命が生まれた地も、奇稲田姫が長男を産んだ地も、同じ飯石郡熊谷郷であることにより、大国主命が八島士奴美の可能性はある。201949日投稿の「八島士奴美と大国主」をご参照ください。      

近くの雲南市木次町新市に八岐大蛇公園(やまたのおろちこうえん)がある。

大己貴命(大国主命)は出雲の三刀屋で生まれ、三刀屋で育ち、成長すると出雲平野に出て活躍し、多くの女性を妻にした。活動範囲は北陸の新潟県から九州にまで広がり、近畿地方にも事績が多く残っている。

大己貴命は沖ノ島から対馬を経て朝鮮、遼東、後漢までも行ったでしょう。子は181人もいると云う。

九州では「葦原の中津国(古賀市・福津市・宗像市・遠賀郡・北九州市)」を治めていたが、西暦200年頃に素戔嗚命が亡くなると、201年に倭国の女王に即位した卑弥呼(天照大神②、179年-247年)と高皇産霊尊に国譲りを強制され、出雲国(島根県)に帰ってしまった。

そして、大国主命は西暦220年頃に亡くなり、西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓に埋葬された。3号墓に埋葬されたのであれば、隣りに埋葬された女王は須世理比売でしょうか。3号墓には、それ以外にも数人が埋葬されているが、妃や子でしょうか。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2020-01-10 07:30