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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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三国志の筆法

孔子(BC551年-BC479年)の著書や、孔子が編纂したと云われる中国春秋時代(BC770年-BC403年)の歴史書「春秋」には、孔子が厳しい批判や指摘を展開している。

「春秋」は魯(ろ)国のBC722年からBC481年までの歴史的・社会的な記事を中心として年表で記されている。

魯はBC1055年からBC249年に山東省南部に存在し、魯の北にある斉との境界には石積みの長城があり、「千里の長城」と云われ、「万里の長城」よりも古い。孔子は魯の出身で各国を逍遥し、「儒教」の祖となった。

魯はBC249年に楚に滅ぼされ、山東省南部は楚の領地となった。楚の都は郢(えい)と呼ばれ、都がどこに移っても郢と呼ばれた。

魯の都・曲阜(山東省曲阜市、孔子の生地)の南方にある徐州(江蘇省徐州市)を楚は郢とした。徐州は項羽が楚の都とし、劉邦の出身地であった。

前漢の初代皇帝(高祖)となった劉邦(BC247年-BC195年)の出身地は江蘇省徐州市で、劉邦は楚の武将である項羽(BC232年-BC202年、妃は虞美人)に仕えていたので、私は劉邦が項羽と同じ楚人であると考えています。項羽の出身地は徐州市の東隣りの江蘇省宿遷市で、どちらも楚の領土であった。

孔子は直接的な表現で批判を述べるのではなく、間接的な表現を使い、ありのままの事実だけを述べているように見せるなど、暗号的な表現方法をとる場合がある。この表現方法を「春秋の筆法(孔子の筆法)」と云って、一定のルールが分かれば暗号を理解できるしくみになっている。

孔子の政治的・道徳的思想を「春秋」から研究しようとする「春秋学」も起こった。古来より種々の解説書があるが、魏と西晋に仕えた政治家・軍人・学者である名門の杜預(とよ、西暦222年-284年)が註釈した「春秋経伝集解」が春秋学の基本となった。

杜預は魏の司馬懿(179年-251年)の娘・高陸公主を妻とし、西晋に仕えてからは西暦280年に鎮南将軍として呉を滅ぼしている。「破竹の勢い」と云う言葉は、この時の杜預の進軍ぶりを云う。

孔子が「筆法」を用いたことにより中国の正史は、史実に加えて間接的な批判を記すようになった。

3世紀に蜀(蜀漢)と西晋に仕えた陳寿(233年-297年)が魏・呉・蜀の三国志を著したが、三国志にも春秋の筆法が使われている。陳寿が仕えた蜀漢や西晋を直接的には批判できないからである。

遼東半島と朝鮮を治めて燕王と称していた公孫淵が西暦238年に魏の司馬懿(しばい、179年-251年)により滅ぼされ、卑弥呼(179年-247年)が魏に使者を派遣できるようになった。新撰姓氏録によると、「左京 諸藩 漢 常世連 燕国王公孫淵之後也」とあり、常世氏(赤染氏)は燕王公孫淵の末裔と記している。司馬懿と卑弥呼は殆ど同じ時期を生きた。

春秋の筆法では国名や姓名の漢字を分解して筆法に使う場合がある。例えば魏に仕え、軍功により大将軍に昇進した司馬懿が西暦249年にクーデターにより王族の曹一族を皆殺しにして魏を簒奪したと云う史実がある。これを陳寿は立場上直接的に批判できないので魏書東夷伝倭人条に間接的に批判している。

陳寿は魏書東夷伝倭人条に「邪馬国(邪馬台国)」をわざと間違えて「邪馬国(邪馬壱国)」と記している。同じように西暦266年に晋に朝貢した與(とよ、235年頃-295年頃)も與(いよ、壱与)と表記し、整合性をとっている。

クーデターを起こした司馬懿の懿を分解すると、壹と恣に分けられる。司馬懿は「司馬壹恣」となり、邪馬臺国は「邪馬壹国」にわざと間違える。

共通文字の「馬壹」を省いて繋ぐと「司恣邪国」となり、「恣」と「国」を入れ替えると「司国邪恣」となる。「邪(よこしま)な恣意でもって国を支配する」と云う意味になり、司馬懿が魏を簒奪した事件を暗に批判した。

陳寿は司馬懿を批判するために邪馬臺国の「臺」を「壹」に代え、臺與を壹與に代えたのであった。後世の他の史書には正しく「臺與」と記され、筆法が理解されていたことが分かる。

陳寿の筆法は直ぐに解読され、陳寿は山東省の太守に左遷されたが、杜預の擁護により中央政府に職を得た。この擁護は「春秋学つながり」なのかもしれない。

臺與(西暦235年頃-295年頃)も杜預(西暦222年-284年)も日本語の発音は、「とよ」であるが、生きた時代もほぼ同じであった。

日本書紀においても孔子の筆法が頻繁に使われている。誰が読んでも間違いと分かる異常な記事が頻発するが、このような部分は筆法で、記紀の編纂者が何を言おうとしているのかを探る必要がある。

例えば、日本書紀の神武天皇紀に「天孫が降臨されてから、1792470年余になる。」とあるのは、天孫とは天照大神②(卑弥呼)で、初代奴国王生誕から179年後に生まれ、247年後に亡くなったと云う意味になる。

卑弥呼は西暦179年に生まれ、247年に亡くなっているので、初代奴国王の国常立尊(くにのとこたちのみこと)の生年は偶然にも西暦元年と云うことになる。

そして、初代奴国王の国常立尊は西暦57年に後漢に朝貢し、「漢委奴国王」となった。私見ですが、日本の皇室は初代奴国王から始まるとすれば、西暦元年が日本の皇室の始まりとなる。

宮廷公卿の大伴家持(おおとものやかもち、718年?-785年)は、「万葉集」を単なる和歌集ではなく、敗者や一般人の立場から「歴史」を暗示できる歌集として編纂していった。

      

藤原定家(1162年-1241年)は二つの勅撰集「新古今和歌集」と「新勅撰和歌集」、その他多くの作品を残したが、万葉集を研究し、和歌に政治的・歴史的な意味を見いだそうとしたのではないか。

小倉百人一首にも藤原定家の意図が見られるので、今後調べていきたい。

戦前の皇国史観では、神武天皇即位を紀元前660年にしている。その時期は縄文時代です。私見ですが、神武天皇(西暦181年-248年)の即位は西暦211年です。皇国史観に反発した戦後史学は日本の古代史を抹消してしまった。

日本の古代史は、皇国史観によって歪められ、戦後史学によって抹消されてしまったので、古代史を復活・復元する必要がある。

戦後史学により古代史が抹消されたが、多くの考古学者は、「発掘遺跡や出土品」と「古文書や伝承」との関りについて有意義な説を述べておられるので、古代史の将来に希望が持てる。

イギリスの歴史学者アーノルド・トインビー(1889年-1975年)は、滅亡した民族について研究し、その共通点を見つけた。

自国の歴史を忘れた民族は滅びる。

すべての価値をお金に置き換え、心の価値を見失った民族は滅びる。

理想を失った民族は滅びる。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp


by enki-eden | 2020-01-17 19:27