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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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伊毘志都幣命(いびしつべのみこと)

伊毘志都幣命(いびしつべのみこと)は出雲国風土記に記載の神で、出雲国飯石(いいし)郡に天下った。   

島根県雲南市三刀屋町(みとやちょう)多久和(たくわ)1065「飯石神社(いいしじんじゃ)」に祀られている。式内社で、神紋は二重亀甲に「石」又は「剣花菱」。

当社境内に遷座してきて幣殿横に並んでいる境内社の託和神社(祭神は吉備津彦命)も、出雲国風土記に記載されている。

当社は、斐伊川の支流である三刀屋川の支流の飯石川(託和川)が南北に流れている東側に西向きに鎮座。本殿はなく、拝殿、幣殿の後方に二重の玉垣があり、ご神体の石(磐座)が祀られている。この石に伊毘志都幣命(いびしつべのみこと)が降臨したと云う。





当社の6km北には大己貴命(大国主命、160年頃-220年頃)が生まれ、育った宮がある。

「飯石郡」の地名由来は、45代聖武天皇(701年-756年)の天平5年(733年)に完成した出雲国風土記に「飯石と称するゆえんは、当地に伊毘志都幣命が坐(いま)すので、飯石と云う」と記されている。聖武天皇の神亀3年(726年)に地名の伊毘志を飯石に改めている。

島根県神社庁が昭和56年に発行した「神国島根」に、伊毘志都幣命は天照大神の御子である天穂日命の御子神と記されている。

天照大神と素戔嗚尊(140年頃-200年頃)の誓約(うけい)により五男三女神が生まれ、天穂日命は天照大神の第二子(次男)となった。天穂日命は西暦200年頃の「出雲の国譲り」に登場する。天穂日命は天日隅宮(あめのひすみのみや、出雲大社)の祭主となって、大国主神を祀る。

天穂日命は摂津国では「芦屋神社」に祀られている。また、六甲山カンツリーハウスの敷地内に天穂日命を祀る磐座がある。   

原田常治(つねじ、1903年-1977年)著「古代日本正史」によると、天照大神(大日孁貴)は、素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が出雲に帰るときに次男の天穂日命を連れて帰ってもらっている。更に、大国主命と多紀理姫の末子・事代主命は、出雲では伊毘志都幣命と呼ばれたとあるが・・・

世代的には事代主命も伊毘志都幣命も西暦180年頃の出生であるが、事代主命と伊毘志都幣命が同一とすれば、事代主命の「えびす」と云う名は「いびしつべのみこと」が由来かもしれない。

出雲大社の祭祀を行う出雲国造家(天穂日命が祖神)は、出雲大社と同じく出雲国一宮の熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451)がある意宇(おう)郡を発祥とする。

出雲にやってきた天穂日命は熊野大神櫛御気野命(素戔嗚尊)から燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりぎね)を授かったという。現在でも出雲大社の宮司が代替わりの時に、熊野大社の宮司から出雲大社の宮司に鑽臼と鑽杵を授ける神事が続いている。

天穂日命は素戔嗚尊から意宇郡を治めることを許されたと考えられる。天穂日命は島根県安来市(やすぎし)吉佐町(きさちょう)365の支布佐神社(きふさじんじゃ)に祀られており、当地を本拠にしたと考えられる。




そして素戔嗚尊が西暦200年頃に亡くなると、201年に卑弥呼(天照大神②、179年-247年)が倭国の女王となり、大国主命(160年頃-220年頃)の北部九州の支配地(葦原の中津国)を放棄させ、大国主命は出雲に帰り、出雲の杵築に大きな宮を築いてもらう。

大国主命が西暦220年頃に亡くなると、天穂日命が祭主となって大国主命を出雲大社で祀った。やがて祭主は天穂日命の養子となった伊毘志都幣命に引き継がれ、出雲国造となる。

私見ですが、伊毘志都幣命は大己貴命(大国主命)の子で、天穂日命が素戔嗚尊と共に出雲にやってきた際に、天穂日命と伊毘志都幣命は親子の契りを結び、天穂日命が亡くなった後は伊毘志都幣命が祭主を務めて大国主神を出雲大社で祀ったのではないかと考えています。

出雲国造家祖神の天穂日命は、出雲大社の本殿瑞垣外にある「北の氏社(うじのやしろ)」に祀られている。



大国主命と伊毘志都幣命の出身地は、いずれも島根県雲南市三刀屋町で近い。二人の関係は親子と考えられる。従って、伊毘志都幣命が出雲大社で大国主神を祀ることになったと考えられる。

天穂日命の養子となった伊毘志都幣命は、別名を天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)と云って、出雲国造と土師氏の祖となっている。現在の出雲大社宮司は千家尊祐氏(たかまさ、1943年生)で、84代目の出雲国造である。

出雲国風土記楯縫郡の神名の中に、神魂命(伊弉奈彌命)の子として天御鳥命(あめのみとりのみこと)が記されており、天夷鳥命と少し似た名前になっている。

伊毘志都幣命の別名は多く、武夷鳥命、武日照命(たけひなてるのみこと)、大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)、武三熊大人、天熊大人、稲背脛命(いなせはぎのみこと)などとも云う。

出雲国造家は14世紀半ばに千家国造と北島国造に分かれた。出雲信仰を全国各地に拡げるために、千家国造は「出雲大社教(いずもおおやしろきょう)」を主宰し、出雲大社の西側に本拠(千家国造館)を置き、北島国造は「出雲教」を主宰し、出雲大社の東側に本拠(北島国造館)を置いている。

原田常治氏は、古事記も日本書紀もウソが多いので読む気がしない、正しい古代史を構築するために記紀成立以前に創建された神社の由緒を研究して古代史を復元したと言っておられる。

「古代史の復元」については私も努力しているので共感できますが、記紀にはウソが多く読む気がしないというのは違うと思います。

誰が読んでも間違いだという部分は特に日本書紀に多いですが、それは「孔子の筆法」を用いているからです。正直にありのままを記述すれば当時の皇室の立場上、許されないことに関して、筆法を用いて真実を間接的に述べているからです。

私は、記紀は非常に重要な歴史書だと考えています。但し、記述の主体者は皇室だから皇室の立場で述べていると云うことです。弱者の立場や敗者の立場で歌を詠んでいるのが万葉集です。「古事記・日本書紀・万葉集」をご参照ください。   

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2020-01-25 11:26