伊勢神宮と同じ緯度の対馬に海神神社(かいじんじんじゃ)
伊勢神宮内宮(三重県伊勢市宇治館町1番地)の緯度は北緯34°27′18″になっている。
同じ緯度を西に辿ってみると、
談山神社(奈良県桜井市多武峰319)が34°27′57″、祭神は藤原鎌足(614年-669年)。
鎌足は藤原氏隆盛の基を築いた。 藤原不比等(659年-720年)の父。
高松塚古墳(奈良県高市郡明日香村平田)が34°27′44″、被葬者は忍壁皇子(おさかべの
みこ、705年没)か? 40代天武天皇(686年崩御)の皇子。
直系23mの円墳、国宝の壁画で有名、築造時期は700年前後。
伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀740)が34°27′36″、淡路国一宮、
祭神は伊弉諾尊(125年頃-190年頃)、倭王兼7代目奴国王。
海神神社(かいじんじんじゃ、長崎県対馬市峰町木坂247)が34°27′51″、対馬国一宮、
祭神は豊玉姫命(初代神武天皇の祖母)。
配祀: 彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜葺草葺不合命。
図をクリックして、プラスマークをクリックすると拡大します。
海神神社祭神の豊玉姫は山幸彦(彦火火出見命、西暦140年頃出生)の妻で、子は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、孫は神武天皇(西暦181年-248年)。
豊玉姫は天照大神(大日孁貴、おおひるめのむち)で、玉依姫も天照大神(卑弥呼、西暦179年-247年)だと云う説があるが、卑弥呼は市杵嶋姫の娘だと私は見ています。
山幸彦は兄の海幸彦から借りた釣り針を失い、志摩の国(糸島半島)から海神の国(対馬)まで探しにやってきた。「海神」の娘である豊玉姫命は、異国から訪れてきた山幸彦と結婚して、志摩の国へ行き海岸の産屋で鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を生んだ。
豊玉姫が出産する際に、古事記では「八尋鰐(やひろわに)」の姿、日本書紀では「龍」の姿となったのを山幸彦が覗いたので、正体を見られたことを恥じた豊玉姫は鵜葺草葺不合を残して海神の国へ帰ってしまった。豊玉姫は鰐をトーテムとする海人族であった。
鵜草葺不合命は、豊玉姫の妹(又は娘)の玉依姫(たまよりひめ)に養育され、後に玉依姫を妻として神武天皇(西暦181年-248年)をもうける。
志摩半島の西沖合5kmに姫島(糸島市志摩姫島)があり、姫島神社が鎮座、祭神は豊玉姫命。豊玉姫命は姫島の北端にある「産の穴(うそのあな、うぶのあな)」で生まれたと伝わる。
姫島の16km真東の糸島市志登の志登神社(しとじんじゃ、志摩郡総社)に豊玉姫命が祀られている。豊玉姫命が彦火火出見命を追って上陸した霊地だと云う。
志登神社は、名前の通り「志摩国」と「伊都国」の中間にあり、古代の志摩地区は糸島水道によって分離された島(志摩国)であり、志登神社周囲はその糸島水道に当たり、海神である豊玉姫命や和多津見神を祀っていたものと思われ、古代は海より参拝していたらしい。
志登神社の3.5km南に平原(ひらばる)遺跡の平原王墓がある。被葬者は女性で、豊玉姫命と云う説がある。豊玉姫命の墳墓は対馬にもあるが・・・
平原王墓の3km東の糸島市高祖に高祖神社(たかすじんじゃ)が鎮座しており、祭神は彦火火出見命と玉依姫命。
「平原王墓の埋葬方向」と「伊都国を掘る」をご参照ください。
竜宮の豊玉姫を妻とした山幸彦は、宝物の潮満珠(しおみつたま)と潮乾珠(しおひるたま)を授かった。そして、その宝物の威力により、兄の海幸彦との争いに勝利した。
この物語のシーンは、旧約聖書のモーゼの「出エジプト記」を思い出させる。この他、日本書紀の「天地開闢」の話も旧約聖書の「創世記」によく似ている。
聖徳太子(西暦574年-622年)の幼名「厩戸の皇子(うまやどのみこ)」の記事が、新約聖書のキリスト生誕記事によく似ている。
記紀の成立した8世紀より前に、西アジアからシルクロードを通って列島まで来た人々が既にいたと云う。
ペルシャ語解読の第一人者である京都大学名誉教授の伊藤義教氏(1909年-1996年)の研究によると、日本書紀の29代欽明天皇(西暦509年-571年)15年(西暦553年)2月、百済からやってきた医博士奈率・王有陵陀(くすしのはかせなそつ・おううりょうだ)と採薬師施徳・藩量豊丁有陀(くすりかりはかせせとく・はんりょうぶちょううだ)の二人はペルシャ人だと云う。
王有陵陀は中世ペルシャ語で「ワイ・アヤーリード」で、「ワイ(神)によって助けられるもの」と云う人名だと云う。
藩量豊丁有陀は「ボリヤワーデン・アヤード」で、「鋼のような強固な記憶の持ち主」と云う名のイラン人医師であると云う。
6世紀半ばの欽明天皇の時代にペルシャ人の医師が大和朝廷に仕えていたのだ。
日本とペルシャの直接的な貿易は遅くとも7世紀に始まっているが、木簡の調査により、広範囲な交流があったと云う。
平城宮跡の発掘調査で発見された天平神護元年(西暦765年)の木簡を赤外線で調査した結果、日本に住むペルシャ人の役人の名前が出てきた。破斯清通(はしのきよみち)で、「波斯、破斯(はし)」はペルシャ人を表す。
奈良文化財研究所によると、このペルシャ人は日本の役人が教育を受ける施設で働いており、ペルシャ人が得意としていた数学を教えていた可能性があると云う。
天平8年(西暦736年)に遣唐副使・中臣名代(なかとみのなしろ、745年没)の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人の李密翳(りみつえい)は大和朝廷に勤めた。医師であったのか、ゾロアスター教の神官だったのか、あるいは商人だったのか。 正倉院の御物にはペルシャ製品が多い。
李密翳(りみつえい)の日本名が破斯清通(はしのきよみち)の可能性がある。
45代聖武天皇(西暦701年-756年)と光明皇后(西暦701年-760年)に仕えた李密翳の「翳」は、中世ペルシャ語では「楽人」であるので、医師ではないようだ。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp