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神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


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福岡市元岡遺跡群

 素戔嗚尊(140年頃-200年頃)が筑紫紀氏の大矢女命に産ませたのは五十猛命(160年頃-220年頃)で、素戔嗚尊は五十猛命に九州北西部(対馬、壱岐、佐賀県、福岡県西部)を統治させた。

 五十猛命の本拠地は、斯馬国(志摩郡)と伊都国(怡土郡)で、現在の福岡県糸島市と福岡市西区西部である。卑弥呼

(西暦179-247年)が親魏倭王になった時代(239年)には、五十猛命の孫が伊都国王であったと考えられる。

 卑弥呼の次の女王、臺與(西暦235年頃-295年頃)が西暦270年頃に大和国に東遷したときには伊都国王の五十瓊殖

(イニエ)を伴った。五十瓊殖は五十猛命の5世孫と考えられ、大和国で10代崇神天皇(西暦251-301年)となり、

物部氏と結託して全国制覇に取りかかった。

 「五十(いそ)は伊都」「五十猛(いそたける、いたける)」をご参照ください。

  

  図をクリックしてプラスマークをクリックすると拡大します。

福岡市元岡遺跡群_d0287413_13344868.jpg

 糸島市には弥生時代後期(1世紀~3世紀)の遺跡、伝承が多い。「伊都国を掘る」

「三雲井原遺跡のすずり片」「平原王墓の埋葬方向」をご参照ください。

 平原王墓出土の銅鏡40枚の内、5枚は径46.5cmもある大型の内行花文鏡で、皇室の三種の神器の「八咫鏡(やたのかがみ)」と同じではないかと云う。

 私見ですが、平原王墓は大日孁貴(天照大神①、西暦140年頃-200年頃)の墳墓の可能性が高いと思います。平原王墓を発掘した原田大六氏(1917-1985年)は、被葬者を玉依姫(大日孁貴)としている。原田氏は1917年(大正六年)正月生まれだから、大六と云う名になった。

 

 伊都国の中央にある三雲(みくも)には細石神社(さざれいしじんじゃ、旧名・佐々禮石神社)が鎮座、祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)と木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。

 1.9km北東の高祖山(たかすやま、416m)麓には高祖神社(たかすじんじゃ)が鎮座、祭神は彦火々出見命、玉依姫命、息長足姫命。夏至の頃には高祖神社方向から太陽が昇る。

 

 

 

 細石神社の1.3km北西に平原遺跡(3世紀初頭)、すぐ近くには三雲南小路遺跡(紀元前1世紀)、井原鑓溝遺跡(紀元1世紀)、端山古墳(はやまこふん、4世紀の前方後円墳)、築山古墳(つきやまこふん、4世紀の前方後円墳)がある。

 端山古墳と築山古墳は五十猛命の5世孫の墳墓か? 10代崇神天皇の弟か従兄弟か?

 

 福岡市西区大字元岡の元岡遺跡群G6号墳では、年号の「庚申」銘文入り金象嵌鉄刀(75cm)と青銅製大型鈴(12cm)のほか、多数の玉類、須恵器、鉄鏃、馬具などが出土している。


 鉄刀に19文字が金象嵌されており、「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果錬」と記されている。 「福岡市教育委員会」の解説をご覧ください。

   

 G6号墳は7世紀初め築造の方墳(一辺18m)なので、年号の庚寅は西暦570年のことだと考えられ、29代欽明天皇の時代になる。

 大和政権は、神功皇后(西暦321-389年)の新羅遠征(363年)を契機として、4世紀から朝鮮半島で頻繁に軍事活動をしているので、元岡製鉄遺跡群で武器・鎧・兜・楯などが生産されていたと考えられる。軍事訓練も盛んだったでしょう。

 福岡市教育委員会の「福岡市元岡・桑原遺跡群の大規模製鉄遺跡」をご覧ください。

     

 任那の日本府が29代欽明天皇(西暦509-571年)時代の西暦562年に新羅によって滅亡した。これを奪還するために33代推古天皇(西暦554-628年)は新羅に出兵し降伏させたが、兵が帰還すると新羅は再度占領した。

 志摩郡は新羅征討の際に駐屯地になっていた。推古天皇が西暦602年に聖徳太子(西暦574-622年)の弟・来目皇子(くめのみこ)を「撃新羅将軍」として派遣したが、出発前の603年に糸島市野北の駐屯地で皇子が亡くなったので新羅征討は中止となった。野北に久米の地名があり、久米神社も鎮座している。来目皇子遺跡も残っている。

 

 

 

 推古天皇11年(西暦603年)4月、来目皇子の異母兄・当麻皇子(たいまのみこ、西暦574年頃-634年頃)が征討将軍に任命され7月難波より出航し、76日に播磨国明石に到着するが、妻の舎人皇女が薨去したため、当麻皇子は舎人皇女を明石に埋葬し大和国に帰還、新羅征討計画は中止となった。神戸市西区の「吉田大塚古墳」をご参照ください。

  

  その後、朝鮮半島で何度も戦闘が繰り返され、日本は高麗・百済・新羅に調(貢納)を納めさせたが、調の代わりに新羅から皇太子を人質に取るようになった。しかし、任那(伽耶)が日本に復帰することはなかった。

 

 庚寅(西暦570年)銘の金象嵌鉄刀を伴って元岡遺跡群G6号墳に埋葬されたのは、任那奪還を目指した将軍クラスの皇族か武人だったのではないか。

 錬鉄の金象嵌鉄刀は欽明天皇から授けられたのであろう。

 

 砂鉄について

 砂鉄は、地球の上部マントルや地殻下部のような深部でマグマがゆっくり冷えてできた花崗岩や閃緑岩などの火成岩に含まれる「チタン磁鉄鉱」や「フェロチタン鉄鉱」が、岩石の風化によって粒子になってできた。

 日本列島はニュージーランド、カナダと共に砂鉄の世界三大産地と言われ、日本では古代から砂鉄を原料に「たたら製鉄」が行われてきた。「たたら製鉄再現」をご参照ください。

    

 中国山地(山口県から兵庫県までの500km)は花崗岩系でできているが、「たたら製鉄」の発達した中国山地の北側の山陰地方は南側の山陽地方より地質がかなり若く、黒雲母花崗岩を主体とするチタン磁鉄鉱帯(真砂砂鉄地帯)を形成している。南側の山陽地方はフェロチタン鉄鉱系(赤目砂鉄地帯)になっている。中国山地北側の出雲国でも南側の吉備国でも「たたら製鉄」が盛んであった。

 

 九州でも砂鉄が多い。糸島半島の海岸からは日本で最良の砂鉄が取れる。1999年に、福岡市西区の元岡にある九州大学移転用地(元岡遺跡)から、たくさんの製鉄炉の跡が見つかっている。

 古代に利用されていた地下資源は、鉄の他に「対馬の銀」、「筑豊香春岳の銅」がある。

 石炭と金は、九州では中世に発見された。火山からとれる硫黄は、九州北部の大友家や南部の島津家の貿易品として重要であった。

 近世では、金山、銅山、錫山の開発が進み、セメント原料の石灰石の採掘がはじまった。

    

 姫路市の「荒川神社」を投稿しましたのでご覧ください。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2020-03-13 13:52