京都学習院
学習院は幕末の1842年に公家の学問所として設立が決定され、京都御所の建春門前(御所の東側)に設立され、1847年に講義が開始された。
尊王攘夷派の公卿である三条実万(さねつむ、1802年-1859年)が学習院初代伝奏(てんそう、学長)を務めたが、実万は「武家伝奏」にも任じられ、朝廷と幕府との連絡役として京都江戸間を往来した。実万の三男である実美(さねとみ、1837年-1891年)は明治政府の内閣総理大臣になった。
京都学習院は明治の初めに廃止され、東京神田では1877年に皇族・華族学校の「学習院」が設立された。
幕末の京都学習院では一時期、尊王攘夷派が集い、日本の行く末を議論するようになり、尊王攘夷派の公家と志士たちの集会所として利用された。
「学習院出仕」あるいは「学習院御用掛け」に任命されたのは長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞・桂小五郎、土佐藩の土方楠左衛門・田中光顕、福岡藩の平野國臣、久留米藩の真木保臣、細川藩の宮部鼎蔵、越前藩の三岡八郎など下級武士であった。
「京都学習院の同志」は下級公家や藩主にまで及んでいたが、その実態が分からなかったのは、学習院とは別に実質的な集会所が「天台宗青蓮院」(しょうれんいん、京都市東山区粟田口三条坊町)の境内にあったからである。
青蓮院境内は当時5万坪もあり、幕吏も入れなかったので、日本の将来を推進しようとする勢力が集まるのには絶好の場所であった。
青蓮院の門主(住職)は皇族の親王が務め、現在の門主は東伏見家出身の東伏見慈晃氏(ひがしふしみじこう、1942年生)である。
各藩の志士と攘夷派公家が学習院や青蓮院で攘夷決行の密議を行っていたが、尊王攘夷運動に対抗して1863年に「8月18日の政変」が勃発、公武合体派などが会津藩兵士1,500名などを動員し、三条実美など攘夷派公家や尊王攘夷派の長州藩士などを京都から追放した。
その結果、学習院は本来の教育機関に戻り、明治新政府により「大学寮代」と改称されたが廃止となり、東京神田に学習院が設立された。
池田屋事件、禁門の変(蛤御門の変)、長州征伐、薩長同盟、戊辰戦争、明治維新へと続き、武士の時代が終了し、王政復古が実現した。
青蓮院最後の門跡は久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう、1824-1891)で、1852年に青蓮院門跡となった。伏見宮邦家親王(くにいえしんのう、1802年-1872年)の第4王子である。
開国・攘夷・勤王、佐幕の論客志士が久邇宮朝彦親王のもとに集まり、志士の意見は親王によって天皇に伝えられた。 親王と特に親しかったのは、西郷隆盛(1828年-1877年)と清水寺の僧で尊王攘夷派の月照(1813年-1858年)の二人であった。
青蓮院の叢華殿(親王の住居)の二階が密会の場所であって、建物の構造が秘密の会合に適するように工夫されていて、明治26年の火災を免れ、今も昔の姿のままに残されている。
久邇宮朝彦親王は現上皇の曽祖父(香淳皇后の祖父)であり、1863年に攘夷派公家や長州藩士を京都から追放すると、還俗して中川宮と名乗る。
久邇宮朝彦親王は121代孝明天皇(1831年-1867年)と同じく公武合体派であるのが判明したので長州藩士から恨まれることになる。
王政復古が決定し、討幕派・攘夷派公卿や長州藩が復権すると、朝彦親王は広島藩預かりとなって謹慎する。
1870年に謹慎を解かれて伏見宮家の一員に復帰、1875年に久邇宮家を創設、伊勢神宮の祭主に就任する。かつて天台座主を務め、今回は伊勢神宮祭主である。
1882年に三重県伊勢市の林崎文庫内に皇學館を創立し、神職や教員の養成にあたった。
皇學館は1940年に官立の神宮皇學館大学に昇格したが、敗戦となり1946年にGHQによる神道指令により廃学となる。
1962年に皇学館大学を開学、その後、皇学館高等学校、皇学館短期大学、皇学館中学校を開校する。大学名を「皇学館大学」から「皇學館大学」に名称変更する。
「黒田堅田神社」を投稿しましたのでご覧ください。
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