鹿子水門(かこのみなと)
日本書紀の15代応神天皇(西暦363年-403年)の記事に、「鹿子水門(かこのみなと)」の話が出てくる。鹿子水門とは播磨国の「加古の港」で、兵庫県加古川市を流れる加古川が瀬戸内海に注ぐ河口にあった。
1世紀や2世紀の古代においては、吉備国の印南郡と赤石国(明石国)の加古郡は加古川の流れを境界にしていた。3世紀になると、その境界を大和政権が西に移動させ、最終的には赤穂郡までを針間国(播磨国)とした。つまり、大和政権が吉備国の東部の領土を奪ってしまった。
金色が針間国、赤が針間鴨国、青が明石国。

2012年12月28日投稿の「いにしえの吉備の国の東の端は加古川」をご参照ください。
岡山大学の今津勝紀教授による「日本古代史研究とGIS(地理情報システム)」に、鹿子水門(かこのみなと)は、現在の加古川河口から3kmほど遡った加古川市加古川町稲屋(いなや)付近で、しかも川の流れは今より少し東に寄っていたと云う。川の流れは、自然に、或いは人工的によく移動する。
今津勝紀教授によると、
『播磨国には西から千種川(ちぐさがわ)・揖保川(いぼがわ)・市川・加古川といった大河川が流れるが、古代ではこれらの流域毎に郡を設置するのを原則とした。
千種川の下流域は赤穂郡、上流域は讃容郡(さようぐん、佐用郡)、揖保川の下流域は揖保郡(いぼぐん)、その上流域は宍粟郡(しそうぐん)、市川の下流域は飾磨郡(しかまぐん)で、上流域は神埼郡(かんざきぐん)である。
加古川の下流域だけが少し特殊であり、左岸(東)に賀古郡を、右岸(西)に印南郡(いなみぐん)を配すが、中流域は賀茂郡に、上流域は多可郡(たかぐん)に編成されている。
因みに、明石郡は明石川流域を、美嚢郡(みなぎぐん、三木市)は加古川支流の三木川流域を編成したものである。
このように、印南郡と賀古郡を除いて、令制下の播磨国の郡は、主要な川の流域を一つの郡に編成するという規則性がある。』と云う。
私見ですが、1世紀から2世紀の古代では、加古川下流を境界として赤石国(明石国)加古郡と吉備国印南郡が接していたので、3世紀以降の郡の配置も加古川を境界にしたと考えられる。
針間国の6郡も元は吉備国の領土で、加古川中流域と上流域の針間鴨国も、吉備国の賀茂郡と多可郡だったと考えられる。
それであれば、1世紀から2世紀の吉備国は広大な領域を占め、たたら製鉄の盛んな強大な地域であった。現在の兵庫県南西部から岡山県全体、広島県東部までを含み、経済的に、文化的に、軍事的に強大な地域であった。しかも、瀬戸内海航路を押さえていた。
3世紀初めに大和国にできた政権にとって、全国制覇を成し遂げるためには吉備国を配下に置き、瀬戸内海航路を制する必要があった。
古事記によると7代孝霊天皇は、皇子の比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)と若日子建吉備津彦命(わかひこたけきびつひこのみこと)を派遣し、針間(播磨)の氷河之前(氷川、日川、加古川)に忌瓮(いわいべ、神聖な器)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたとある。
この記事によると、3世紀後半に孝霊天皇が皇子を派遣し、加古川の西にある吉備国印南郡を平定したことになる。
日本書紀によると、その後、3世紀の終わりに、孝霊天皇の皇子である彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)が、10代崇神天皇(251年-301年)の西海将軍として、異母弟の稚武彦命(わかたけひこのみこと)と共に吉備国を撃ったとあるので、この時に吉備国全体を制覇したと考えられる。
兵庫県南部において、13代成務天皇の時(4世紀中頃)に針間国、針間鴨国、赤石国(明石国)の3国が定められ、それぞれの国に首長(国造)を任じた。
南には幅4kmの明石海峡があり、潮流も早く、政治的、経済的、軍事的に瀬戸内海航路の重要な立地にあった。
645年の大化改新以降、針間国(飾磨郡・神崎郡・揖保郡・赤穂郡・佐用郡・宍粟郡)、針間鴨国(賀茂郡・多可郡)、明石国(明石郡・美嚢郡・加古郡・印南郡)の3国が統一されて針間国(播磨国)になった。
2016年2月1日投稿の「針間国(はりまのくに)」をご参照ください。
吉備国は領土の東部を大和政権に奪われたが、それでも強大な力は衰えず、7世紀後半に備前国、備中国、備後国に分割される。更に和銅6年(713年)に備前国の北部(産鉄地)を美作国(みまさかのくに)に分離されることになる。
神戸市西区の「宇留春日神社」を投稿しましたのでご覧ください。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp

