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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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佐賀藩のアームストロング砲

肥前国佐賀藩(鍋島藩、肥前藩)の10代藩主・鍋島直正(1815年-1871年)は、経済政策に優れ、海外の新技術を積極的に取り入れ、藩政改革や洋式軍備も行った。

佐賀藩は貿易と産業振興で財政が豊かになった。国内販売や輸出品は陶磁器、蝋、茶、穀物、石炭などで、密貿易もあったと考えられるが証拠は残っていない。薩摩藩は琉球を使った密貿易で巨富を得たと云う。

佐賀藩は日本最初の反射炉を製造して鉄を生産、蒸気船(凌風丸)・蒸気機関車を製造、当時最先端の大砲「アームストロング砲」を製造し、佐賀藩を近代的・先進的な藩として運営していた。

「幕末佐賀藩のアームストロング砲」の動画(456秒、佐賀大学)をご覧ください。

  

当時は無線通信がなかったので、麻を巻いた銅線を佐賀と香港の間の海底に敷いて、モールス電信により海外の情報を得ていたと云う。

佐賀藩は1867年のパリ万博に出展、産業革命による高い技術力を持っていた。倒幕には積極的ではなかったが、やる気のない将軍慶喜(1837年-1913年)を見て一気に軍事行動に出た。明治政府では「薩長土肥」として、鍋島直正、副島種臣、江藤新平、大隈重信などが活躍した。

幕末期の大砲は、筒先から弾を込め、撃つ度に筒を掃除していた。日本の主力砲は、フランスで開発された四斤山砲(よんきんさんぽう、砲弾が4kg)で、軽くて機動性がよく山地での運用に適していた。砲腔(砲身の中)にはライフル(らせん)があった。

イギリスで1855年に生産されたアームストロング砲は砲身の後ろから弾を込めるので速射ができ、砲腔(砲身の中)にはライフル(らせん)があって弾は回転しながら飛ぶので命中率が高い。

アームストロング砲は野戦用、要塞用、艦載用にも使われ、イギリスは薩英戦争(1863年)にも艦載砲を使用したが砲身後部が爆発することもあり死傷者が出た。

世界最強のイギリス海軍が薩摩に勝利できずに横浜港に戻ったので、ニューヨーク・タイムズ紙は、「日本を侮るべきではない。彼らは勇敢で、降伏させるのは難しい。」と報じている

イギリスはアメリカの南北戦争時(1861年-1865年)にアームストロング砲を輸出している。南北戦争が終わると、トーマス・グラバー(1838年-1911年)が日本にアームストロング砲を輸入して薩摩・長州・佐賀などに売却した。

佐賀藩はそれを基にアームストロング砲を製造したと考えられるが、佐賀藩製造のアームストロング砲がイギリス製に比べてどの程度だったかは、現物が残っていないので分からない。

否定的な意見の専門家が多いが、少なくとも、従来の大砲より速射性があり、命中度も高かったのではないか。

このアームストロング砲の威力もあって、倒幕派や新政府軍は優位に戦闘を進めることができた。当時はアメリカ、イギリス、オランダ、ロシアなど海外から多くの軍艦がやってきて大騒ぎになったが、日本を打ち負かすことはできなかった。

   

鍋島直正のもう一つのエピソードは、皇太子の睦仁親王(後の明治天皇、1852年-1912年)を大室寅之祐(1850年頃出生)とすり替えると云う長州藩急進派の計画情報を事前に得て、防いだと云うものだ。201767日投稿の「皇統の維持」をご参照ください。

長州藩士の高杉晋作(1839年-1867年)は山口県の萩に生まれ、松下村塾に学び、下関市阿弥陀寺町に奇兵隊を結成するが、一時期、田代宿(鳥栖市)に逃れ、福岡藩や佐賀藩との連携を考えていた。

186411月に田代宿から高杉晋作は鍋島直正公に手紙を送った。「幕府を倒して新しい時代をつくるのは直正公、あなたです」と倒幕を促す内容だったと云う。

第二奇兵隊急進派による「睦仁親王すり替え計画」の情報を得た鍋島直正は、第二奇兵隊の駐屯地(本陣、練兵所)がある山口県光市塩田の石城山(いわきさん、362m)まで睦仁親王を連れて行き、大室寅之祐を殺害して「睦仁親王すり替え計画」を未然に防いだと云う。

この説は、岡山出身の理学博士・保江邦夫氏(1951年-)も支持している。第二奇兵隊(南奇兵隊)は高杉晋作率いる奇兵隊とは別の部隊で300名ほどが所属していた。石城山頂上に「第二奇兵隊本陣跡」の碑と説明板や練兵場跡がある。

石城山は、石城山神籠石(国の史跡)や11社の神社が固まっている聖地のような場所で、ここに第二奇兵隊は本拠地を置いていた。

慶應元年(1865年)正月に、写真家の上野彦馬(1838年-1904年、長崎)が撮影した写真は「佐賀の学生たち」として、佐賀藩士とフルベッキ親子46名が写っているが、「フルベッキ写真」として有名になった。

幕末に活躍した勝海舟、岩倉具経、大隈重信、桂小五郎、副島種臣、大村益次郎、伊藤博文、西郷隆盛、後藤象二郎、陸奥宗光、坂本龍馬、高杉晋作などが写っていると云われ、睦仁親王(後の明治天皇)までが写っていると云う。

上野彦馬もフルベッキ(1830年-1898年)も長崎で活躍していたが、佐賀藩が長崎に設立した藩校・致遠館でフルベッキが佐賀藩士に英語・政治・経済などを教えていた。致遠館では、京都の岩倉具視の子である岩倉具定と岩倉具経も学んでいた。

佐賀藩の大隈重信と副島種臣はフルベッキから英語を学んでいたので、この写真に写っている可能性があるが、写っているのはフルベッキの授業を受けていた佐賀藩士が中心でしょう。

フルベッキは明治2年(1869年)に、明治政府に招かれ東京で仕事をしたが、明治10年(1877年)に退職して、教授や宣教師として全国をまわった。明治31年(1898年)東京で死去。

「フルベッキ」の名は日本人に分かり易くするための通称で、本名はグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック。オランダ生まれのアメリカ移民、本来は日本に宣教師として派遣されていた。

印南神吉   メールはこちらへ  nigihayahi7000@yahoo.co.jp  


by enki-eden | 2020-07-07 09:06