弥生時代の異常気象
中国の春秋戦国時代(BC770年-BC221年)において、揚子江(長江)周辺に江南人(倭人)の国があった。呉(BC585年-BC473年)、越(BC600年頃-BC306年)、楚(BC223年滅亡)の3国である。
華南・揚子江流域の江南人(倭人)は、華北・黄河流域の漢族とは異なる民族で、「倭人」と云われ背が低く、刺青をしており、青銅器・船舶(南船北馬)・漁労・航海・交易・稲作・歌垣・鵜飼などを特徴としていた。
Y遺伝子ハプログループは、漢族のO3に対して、呉人はO2b1、越人はO2a、楚人はO1aであった。但し、大陸の陸続きで相互交流や戦争があったので漢族との混血も進んでいた。
呉と越は、揚子江河口付近に国を構えており、民族的には近かったが、仲が悪く(呉越同舟)、争いが絶えなかった。紀元前473年に呉王夫差が越王勾践(BC465年没)に敗れ、呉が滅亡、呉人は北方に移動し、山東半島の南部周辺に住み着いた。
紀元前334年に越王無彊(むきょう)が楚の威王(いおう、BC329年没)の遠征で敗北逃亡、紀元前306年頃に越は楚に滅ぼされた。
越人は南部のベトナム(越南)や北部の山東半島方面に逃亡、山東半島の南部周辺に住み着いていた呉人は押し出されて朝鮮南部や九州北部に移動し小国家群を造った。
楚には動物信仰があり、道教・鬼道が盛んで楚文字を使い、黄河地域の影響も受けていたが、BC223年に秦(BC221年-BC206年)により滅亡した。
越人や楚人も日本列島に逃亡してきているが、その数は少なく、呉人が中心になり弥生時代が始まった。
北部九州では、2200年前に由布岳(ゆふだけ、豊後富士、1583m)の大噴火があり、その後も噴火が続いていた。
九重連山(1791m)も2000年前と1700年前に噴火したが、当時の阿蘇山(1592m)は静かだった。
弥生時代後半の北部九州では、由布岳と九重連山の噴火により、人々の生活は苦しくなり、争いも連発、それに加えて「ニュージーランドのタウポ山大噴火」により、「地球規模の異常気象」が起きた。
生活環境悪化により、「饒速日命」(にぎはやひのみこと、165年頃-225年頃)が西暦185年頃に大部隊を率いて北部九州から大和国(奈良県)に東遷移住。
神武天皇(181年-248年)が西暦204年に九州を出発して、209年に大和国に到着、211年に大和橿原(かしはら)で即位。
倭国女王の臺與(とよ、235年頃-295年頃)は、270年頃にイニエ(崇神天皇、251年-301年)を連れて北部九州から大和国に東遷、臺與とイニエは大和国の皇室に入籍、7代孝霊天皇(231年頃-274年頃)の時代であった。
臺與は東遷の際、卑弥呼(179年-247年)の遺骸を大和国に運び、280年頃に箸墓古墳が完成、卑弥呼を後円部に埋葬した。臺與も295年頃に亡くなり、前方部に埋葬されたと考えられる。
定型的前方後円墳の箸墓古墳築造により、弥生時代から古墳時代に入っていく。
イニエは物部氏と結託して全国制覇を行い、10代崇神天皇となって、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と云う。
列島の中心地は、弥生時代の北部九州から古墳時代の大和国に移った。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp