綿津見豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)
綿津見豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)の父は、7代目奴国王兼倭王の伊弉諾命(いざなぎのみこと、125年頃-190年頃)、母は伊弉冉尊(いざなみのみこと)であるから、綿津見豊玉彦命は西暦140年頃出生だと考えられる。
綿津見豊玉彦命は、日本書紀には豊玉彦、海神(わたつみ)、少童命(わたつみのみこと)などと記され、古事記には大綿津見神、綿津見大神、海神(わたつみ)などと記されている。
子は、豊玉姫命、玉依姫命、宇都志日金析命(うつしひかなさくのみこと、穂高見命)(安曇氏の祖神)、振魂命(ふるたまのみこと、倭国造・尾張氏の祖神)がいる。
天孫・瓊々杵尊(ににぎのみこと)と大山祇神の娘・木花開耶姫(このはなさくやひめ)の子は、海幸彦(火照命、ほでりのみこと)と山幸彦(彦火々出見命、ひこほほでみのみこと)がいる。
山幸彦が兄の海幸彦の釣り針を借りて漁に行ったが釣り針を無くしてしまった。兄は貸した釣り針を返せと言い張る。
困り切った山幸彦を見た塩土老翁(しおつちのおじ)は、海神(わたつみ)に相談するようにと助言し、海神宮(わたつみのみや、竜宮)に行かせる。
山幸彦は海神の娘・豊玉姫と意気投合し結婚する。そして失った釣り針も見つかって兄に返すことができた。海神は山幸彦が帰るときに、潮の干満を操る塩盈珠(しおみつたま)と塩乾珠(しおふるたま)を授けたので、山幸彦は兄の海幸彦を懲らしめることができた。
山幸彦と豊玉姫には鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)が生まれ、成長すると玉依姫と結婚し神武天皇(181年-248年)が生まれる。
「天火明命と綿津見豊玉彦命は同一人物か」をご参照ください。
豊玉彦命は、倭国(北部九州)の海人族(あまぞく、かいじんぞく)の頭領だったのでしょう。生業は、漁労・交易・航海・海上輸送・蹈鞴製鉄(たたらせいてつ)・手工業などで、稲作の農民を支配した。交易のために大陸まで遠征することもあった。
海人族は列島に渡来する前は、揚子江(長江)周辺の呉、越、楚の江南人(倭人)であったが、大陸の春秋戦国時代(BC770年-BC221年)の戦乱を避けて波状的に日本列島に渡来、列島は縄文時代から弥生時代へと変わっていった。
倭国は北部九州の小国家群で、奴国(福岡市)を中心として発展していった。初代奴国王は国常立尊(くにのとこたちのみこと)で、西暦元年に生まれ、西暦57年に後漢に朝貢、光武帝(BC5年-西暦57年)から「漢委奴国王」金印を授かった。日本の皇室の祖神である。
その頃(2世紀後半)の北部九州は倭国乱が起き、威信を失った倭王の伊弉諾命は淡路島に隠遁、更に西暦200年頃に素戔嗚尊(すさのおのみこと、140年頃-200年頃)が亡くなると、大国主命(160年頃-220年頃)が素戔嗚尊の跡を継いだ。
西暦201年に卑弥呼(179年-247年)が倭国の女王に共立されると、倭国乱は治まった。卑弥呼と高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は大国主命に北部九州の出雲族支配地(葦原中津国)を譲り渡すよう強制した。「三国志とタウポ火山の噴火」をご参照ください。
この時代は弥生時代の末期で、伊弉諾命、綿津見豊玉彦命、高皇産霊尊、素戔嗚尊、大国主命、五十猛命、饒速日命、卑弥呼、神武天皇(181年-248年)などが活躍した。
「奴国から倭国へ」をご参照ください。

綿津見豊玉彦命は、安曇氏、和邇氏、尾張氏、大倭国造など海人族の祖神となっている。
対馬市豊玉町仁位に和多都美神社が鎮座。三の鳥居と四の鳥居の間にある「磯良恵比須(いそらえびす)」は豊玉彦の御神体か墳墓かもしれない。本殿奥には豊玉姫命の墳墓がある。
三重県度会郡(わたらいぐん)二見町江(ふたみちょうえ)575に鎮座の二見興玉(ふたみおきたま)神社の境内社に「龍宮社」がある。
龍宮社の拝殿前には狛犬もあるが、龍像もある。祭神は綿津見大神(豊玉彦命)で、拝殿には「八大龍王大神」の看板表示があり、神仏習合時代の名残でしょう。
「伊勢神宮と同じ緯度の対馬に海神神社」をご参照ください。
印南神吉 メールはこちらへ nigihayahi7000@yahoo.co.jp

