藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
藤原鎌足(中臣鎌足、614年-669年)の祖神は、天児屋根命(あまのこやねのみこと)で、古事記には天児屋命(あめのこやねのみこと)と記されている。
天児屋根命は西暦185年頃の饒速日東遷に従って、北部九州から大和国にやって来た。
藤原鎌足の生誕地は、奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村小原(おおはら)134の大原神社と考えられている。
神社の入り口には「大織冠(たいしょっかん)誕生旧跡」の石碑が建っている。
神社の後方には「藤原鎌足産湯の井戸」が今も残っている。この周辺地は「藤井の原」と呼ばれていたが、「藤原」に転訛したと云う。
大原神社の祭神は、品陀別命(15代応神天皇)と大織冠鎌足(藤原鎌足)。大原神社の右手には明治時代の初めまで「藤原寺(鎌足誕生堂)」があったが、神仏分離令で廃寺になり現在は畑になっている。
大原神社の100m西には中臣鎌足の母・大伴夫人(おおとものぶにん)の墓があり、直径11m~12mの円墳である。
大伴夫人(智仙娘、ちせんのいらつめ)は、大伴金村の子である大伴咋(おおとものくい)の娘で、中臣御食子(なかとみのみけこ)の妻となり、高市郡(古称:たけちぐん)藤原で鎌足を生んだ。
大伴夫人の墓
大原神社の350m北西には「飛鳥坐神社」が鎮座。南西方向には「酒船石」もある。甘樫丘(あまかしのおか)や飛鳥寺(あすかでら)も近く、高市郡の飛鳥(明日香)や橿原は蘇我氏の本拠地であった。
大伴夫人が属する大伴氏の本拠地は河内国の沿岸部であったが、大和国の磯城郡や高市郡に本拠地を移している。
蘇我氏の勢力が強い明日香村で育った中臣鎌足は、蘇我氏の影響を避けるためか摂津国三島郡(茨木市、高槻市)に移り住む。
しかし、鎌足は再び飛鳥に戻り、横暴な蘇我入鹿(そがのいるか、611年-645年)を倒す機会を狙って準備をしていたと考えられる。
中臣氏は物部氏と共に蘇我氏の仏教推進に反対していたこともあり、皇室を凌ぐ勢いの横柄な蘇我入鹿に対しては相当の恨みや被害者意識があったのではないか。
中臣鎌足と中大兄皇子(38代天智天皇、626年-672年)は策略により、645年に飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿を斬殺、入鹿の父・蘇我蝦夷(えみし、586年?-645年)を自殺に追いやり(乙巳の変)、大化改新を推進した。
飛鳥板蓋宮跡
大化改新により、天皇を中心とした律令国家を実現し、各地へ国司の派遣、公地公民制、班田収授法、戸籍の作製と税制(租庸調)などが行われた。
660年に唐と新羅に滅ぼされた百済復興のために、日本は663年(天智天皇2年)に朝鮮出兵、白村江の戦いで唐・新羅軍に惨敗。
天智天皇は667年(天智天皇6年)に飛鳥から近江大津宮に遷都し、正式に即位した。1940年(昭和15年)に天智天皇を祭神とする「近江神宮」が創始された。
鎌足は669年(天智天皇8年)に馬上から転落、怪我の悪化で病死するが、臨終に天智天皇から大織冠(たいしょっかん)と内大臣(ないだいじん)という最高位を授けられ、出身地に因んだ藤原姓を賜り藤原氏の祖となった。
669年に亡くなった藤原鎌足の墓は、「藤氏家伝(とうしかでん、760年成立)」によると、京都山科に埋葬され、次に摂津国三島郡(大阪府高槻市)の阿武山古墳に移葬したとある。
阿武山古墳
663年の敗戦と667年の近江遷都などにより、幼少の藤原不比等(ふひと、659年-720年)は山背国宇治郡山科郷の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家で養育されていた。
不比等の母とされる車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)は百済出自の上毛野(かみつけの)系の車持氏(群馬県と山城国右京)で、田辺氏も百済出自の上毛野系と云う。
不比等の父は鎌足であるが、中大兄皇子とも36代孝徳天皇とも云う。母は上毛野系の車持氏か田辺氏であるが、鏡王女(かがみのおおきみ)とも云うので不比等の出生は複雑だ。
鎌足の長男・定慧(定恵)が唐から帰国して、鎌足の遺骨の一部を阿武山古墳から御破裂山(ごはれつざん、618m)の多武峰(とうのみね)に埋葬した。
桜井市多武峰
大宝元年(701年)に鎌足公の神像を安置し、談山神社(たんざんじんじゃ)を創建、藤原鎌足公を祀った。
談山神社の摂社・東殿(とうでん、恋神社)には鏡女王・定慧・藤原不比等が祀られている。
談山神社東殿
談山神社の由緒によると、
『中臣氏の祖は天児屋根命で代々神事を司る家柄であり、鎌足公はその23代孫に当たる。
鎌足公は中大兄皇子と共に当神社裏の談山(かたらいやま、多武峰)にて国家革新の大業を計り、645年に大化改新を成し遂げた。
白鳳7年(678年)に鎌足公の長子・定慧(じょうえ、定恵)は多武峰(とうのみね)山頂に父の墓を造った。
大宝元年(701年)に神殿を建立、鎌足公の神像を奉安したのが当神社の創始で、全国藤氏一族の総氏神として尊崇を受けている。』とある。
鎌足の娘の五百重娘(いおえのいらつめ)は藤原夫人(ふじわらのぶにん)、大原大刀自(おおはらのおおとじ)とも呼ばれる。
藤原夫人は40代天武天皇(622年?-686年)の夫人(ぶにん)となり新田部皇子(にいたべのみこ、735年没)を生む。藤原夫人の姉の氷上娘(ひかみのいらつめ、682年没)も天武天皇夫人となっている。
夫人(ぶにん)は、皇后、妃に次ぐ地位で、氷上娘と五百重娘は鎌足の娘であるが、母親は判明していない。
天武天皇が686年に崩御後、藤原夫人は異母兄の藤原不比等(ふひと、659年-720年)の妻となり、藤原麻呂(695年-737年)を生む。
鎌足も不比等も自分の娘を天皇に嫁がせて、権力を掌握している。この手法は物部氏や蘇我氏の常套手段であった。
天皇家にとっても政治的・経済的・軍事的なメリットは大きかった。

桜と新緑の柳の季節になりました(播州明石城)。



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