レビ族②
出エジプト後、カナンへ帰還中のレビ人の仕事は、アロンの指導による「契約の箱」の移動・保護、幕屋での祭祀などであった。
アロンの子孫は、レビ族の名門として特別に扱われた。アロンの第3子のエルアザルは大祭司となり、子孫に世襲された。
大祭司だけが年に一度、第7の月の10日の大贖罪日(ヨム・キプル)にだけ至聖所に入ることが許された。
この日、人々は24時間の断食をし、仕事をしてはならない。
カナンの地をアマレク人から戦闘で勝ち取り、イスラエルの指導者となったヨシュアはレビ族ではなくエフライム族であったが、モーセの信頼が篤く、モーセはカナンに到着する前にヨシュアを後継者にたてて亡くなった。
ヨシュアは大祭司のエルアザルと共に民の指導者となった。
祭祀族のレビ人は相続地を持たず全国に居住した。
旧約聖書申命記10章9節に、「レビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。」と記されている。
レビ人の奉仕に対する報酬として、奉納物の十分の一が給付された。
エジプトからカナンの地に戻り、イスラエル王国が建国されると神殿が造られ、レビ人の執り行う神殿礼拝は政治と結びつくようになる。
ダビデ王(BC1040年頃-BC960年頃)の子・ソロモン王(BC1010年頃-BC930年頃)は最盛期を迎え、エルサレム神殿を築き、ソロモンの出身部族ユダ族を優遇した。
しかし、ソロモン王の堕落、息子レハベアム王の失政によりイスラエル王国がBC930年頃に、北のイスラエル王国(10支族)と南のユダ王国(ユダ族、ベニヤミン族、レビ族)に分裂して対立する。
ダビデ家に協力して奉仕していたレビ族は、北イスラエルに居住していた者も南ユダに移住した。
北のイスラエル王国は、BC722年にアッシリアのサルゴン2世(BC705年没)に滅ぼされ、10支族は連行されるか、中東各地に離散していった。
南のユダ王国はアッシリアの属国になったり、エジプトに支配されたりしたが、BC586年に新バビロニアのネブカドネザル王(BC634年-BC562年)に屈し、ユダヤ人はバビロンに捕囚された。
「バビロン捕囚」の期間中にユダヤ教が確立され、律法が重要視されたのでレビ族の立場が強化された。
新バビロニアを滅ぼしたペルシャのキュロス王(BC600年頃-BC529年)がBC538年にユダヤ人をエルサレムに帰したので、破壊された神殿が建て直された。
「失われたアーク(聖櫃)」をご参照ください。
アレクサンダー大王(BC356年-BC323年)はアラビア語・ペルシャ語ではイスカンダルと云うが、大王遠征による大帝国成立によりギリシャ化されたヘレニズム文化の時代になると、ユダ王国ハスモン朝(BC166年-BC37年)ではレビ族から大祭司が任命された。
大祭司は王でもあった。
その後ハスモン朝はローマ帝国に占領され、神殿は破壊され属州となり、王位は剥奪され「大祭司」を名乗ることだけは許された。
ローマはBC40年にエドム人のヘロデ(BC73年-BC4年)をユダヤ人の王とし、BC37年にハスモン王家当主を殺害しハスモン朝は滅んだ。
そして、BC5年頃にユダ族のイエスが生誕、イザヤに預言された救世主として人々に神の教えを説くが、ユダヤ教指導者はイエスを救世主と認めず、律法学者などにも批判され、ローマ軍はイエスを磔刑にした。
やがてイエスの弟子や信者たちがキリスト教をトルコ、ギリシャ、ローマなどに布教していった。
西暦70年、ローマ軍によるエルサレム陥落、神殿も破壊され、「エルサレムの神殿祭祀」は終焉した。
2世紀になると、ローマはユダヤ人を統治する困難を理由にユダヤ人を追い出し始めた。
レビ族も含めてユダヤ人の離散・流浪(ディアスポラ)が始まった。
レビ族として現在も残っている姓に「コーエン(Coen、Cohen)」がある。コーエンは世襲の司祭と云う意味で、モーセの兄アロンのレビ族男系子孫になっている。
印南神吉 メールは nigihayahi7000@yahoo.co.jp

