保渡田八幡塚古墳(ほとだはちまんづかこふん)
関東平野北西部の群馬県高崎市保渡田町と井手町の保渡田古墳群に3基の大型前方後円墳がある。
5世紀終わりから6世紀初めの築造で、国指定史跡になっている。
3基の前方後円墳は、
井手二子山古墳(墳頂108m、全長213m)、
保渡田八幡塚古墳(墳丘長102m、全長190m)、
保渡田薬師塚古墳(墳丘長100m、全長165m、西光寺)、
の順に連続して築造された首長墓で、葺石、埴輪を伴う。
出土物は隣接する「かみつけの里博物館」に展示されている。
「かみつけの里博物館」の写真を見ると、髭面をした武人が縁のあるユダヤの帽子を被り、ユダヤのレビ族特有の耳の前の髪を長く伸ばしてカールしている。現代のレビ族も同じようにしている。
5世紀の当地にユダヤ人のレビ族(祭司族)が住んでいたことが分かる。

私見では、古代の男子の髪の結い方「みずら(鬟)」は、レビ族の影響ではないか。
秦氏は、西アジアの弓月国(ゆづきのくに、ユダヤ系)から4世紀終わりの「応神天皇の頃にやってきた」。
ユダヤ人の秦氏と共に列島にやってきたレビ族が関東に住み着いたと考えられる。
7代目奴国王兼倭王の伊弉諾命(いざなぎのみこと、西暦125年頃-190年頃)も「みずら」をしていたと古事記に記されている。
伊弉諾命の「みずら」は、縄文時代から波状的に列島へ来ていたユダヤ人レビ族の影響だと考えられる。
伊弉諾命、伊弉冉命、猿田彦命などもユダヤ人だったと云う説もあるが・・・
人類が出アフリカの後、太陽が昇る東方に向かって移動を繰り返し、日本列島までたどり着いた。人類は基本的に太陽信仰だと考えられる。
関東平野には古墳が多く、群馬県にも古墳、埴輪が多い。
群馬県は4世紀から6世紀にかけての古墳時代に「上毛野国(かみつけぬのくに)」と言われ、利根川、吾妻川など豊富な水を生かした農業が盛んであった。
5世紀後半からは馬の生産が始まり、大和朝廷と連携した豪族が勢力を伸ばした。群馬県の県名は馬の生産が由来なのか。
県名由来を調べてみると、郡名の車(くるま)郡が8世紀に群馬(くるま)郡に改められ、明治4年に群馬県とした。
古墳の周囲には、人物埴輪、馬などの動物埴輪、円筒形・家屋形などの形象埴輪が並べられた。
埴輪の目的は古墳の聖域を守るためで、権力を誇示する象徴となった。埴輪の調査で古墳時代の風俗習慣を推測できる。
国宝や国の重要文化財に指定されている埴輪は群馬県に多い。
群馬県安中市中野谷1751に羊神社が鎮座、祭神は天児屋根命と多胡羊太夫(たごひつじだゆう)。
奈良時代に上野国多胡郡の郡司だった多胡羊太夫は、秩父郡(埼玉県秩父市)で自然銅を発見、朝廷に献上した。
この銅発見により年号が和銅(西暦708年)に改められた。羊太夫は秦氏と共に渡来したユダヤ人の子孫だったと云う。
多胡氏が羊神社を創建、祖先の羊太夫を祀った。拝殿前の狛犬が「狛羊」になっている。
印南神吉 メールは nigihayahi7000@yahoo.co.jp