伊耶那美命(いざなみのみこと)の神陵
古事記によると、「伊耶那美命(いざなみのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだ時の火傷が原因で亡くなった。
あの世へ行かれた伊耶那美神(いざなみのかみ)は、出雲国(島根県)と伯伎国(ほうきのくに、鳥取県)との境の比婆山(ひばやま)に葬られた。」とある。
比婆山の所在地の一つは、島根県安来市(やすぎし)伯太町(はくたちょう)横屋(よこや)の比婆山(331m)で、山頂に比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)奥の宮が鎮座、拝殿には「雲伯堺」(出雲と伯伎の境)と記されている。30km北東に大山(1729m)を望める。
奥の宮の由緒板には、久米の語源は「コムル(隠し奉る)」の意で伊邪那美命の霊をお祀りしたとある。
本殿に向かって右横に古い塚があり、「伊邪那美大神御神陵」と記されている。

比婆山久米神社奥の宮地図
比婆山の麓には比婆山久米神社(主祭神は伊邪那美尊)の里宮(熊野神社)が鎮座、山頂の奥宮まで参道が続く。神紋は「二重亀甲」に比婆山の「比」。
当地は踏鞴製鉄(たたらせいてつ)による玉鋼(たまはがね)の産地で、伊邪那美尊と火之迦具土神は蹈鞴製鉄と関係が深い。比婆は火場(ひば)かもしれない。
出雲神族の亀甲紋は、竜蛇信仰の「セグロウミヘビ」の鱗だと云う。
揚子江の楚国出身の出雲族である素戔嗚尊の亀甲紋は、神亀の甲羅紋だと考えられる。
比婆山久米神社の20km北北西に伊邪那美命を祀る「揖夜神社(いやじんじゃ、いふやじんじゃ」が鎮座。その東に現世と黄泉国(よみのくに、あの世)の境の黄泉比良坂(よもつひらさか)もある。
伊邪那美命は7代目奴国王兼倭王の伊邪那岐命(いざなきのみこと、125年頃-190年頃)の妻となり、日本の国(島々)を生み、多くの神々を生んだが、死後に黄泉国(よみのくに)に訪ねてきた伊邪那岐命と争ったので黄泉津大神(よもつおおかみ)とも云う。
黄泉比良坂

伊邪那岐命が黄泉国から筑紫に帰って、穢れ(けがれ)を祓った時に天照大神、月読命、素盞嗚尊(140年頃-200年)の三貴子(三貴神)が生まれた。
宮内庁が伊邪那美命の陵墓としているのは、神納山(かんのうやま)にある松江市八雲町日吉の岩坂陵墓参考地である。
岩坂陵墓の1.2km北西の大庭町(おおばちょう)に神魂神社(かもすじんじゃ、国宝)が鎮座、伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)を主祭神としている。
奥宮の出雲大神宮には磐座があり、出雲神族の王(大国主)や副王(少名彦)が亡くなると3年間の風葬後に洗骨して磐座に埋葬した。
神魂神社は、出雲王国の「東の王家」である富家(神皇産霊尊系)の本拠地であった。
出雲王国の「西の王家」である郷戸家(ごうどけ、神門家)の本拠地は智伊神社(出雲市知井宮町1245)の地であった。
智伊神社の元は北東900mの多聞院の地であった。郷戸家は高皇産霊尊系であった。
出雲市斐川町富村(とびむら)596の富神社(とびじんじゃ、八束水臣津野命)も関係が深い。
伊邪那美尊(いざなみのみこと)は、出雲国風土記には神魂命(かみむすひのみこと、かもすのみこと)と記されている出雲の祖神で、娘の綾門日女命(あやとひめのみこと)と真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめのみこと)には大己貴命(おおなむちのみこと)が通っていたので、神魂命と大己貴命(160年頃-220年頃)は強い絆で結ばれている。
もう一つの比婆山御陵は広島県庄原市と島根県仁多郡奥出雲町の境の比婆山(ひばやま、1264m)にあり、山頂のイチイの古木(樹齢2000年)と巨石に囲まれた円丘が伊邪那美尊の墳墓となっている。
当地周辺も蹈鞴製鉄が盛んであった。御陵の4.8km南南東の熊野神社(庄原市西城町熊野)、3.6km南南西の比婆山神社は伊邪那美神を祀り、比婆山御陵の遥拝所となっている。
印南神吉 メールは nigihayahi7000@yahoo.co.jp

