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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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陰陽寮(おんみょうりょう)の結界

平安時代に陰陽師(おんみょうじ)として天文博士を兼任した安倍晴明(あべのせいめい、921年‐1005年)が属していた陰陽寮(おんみょうりょう)は、1869年(明治2年)まで存続しており、天皇家・公家を守っていた。

天皇家・公家を守るために、京の都を守るために、日本の国を守るために陰陽寮は「結界」を張って、邪悪なもの、怨念、呪詛などの攻撃を防いだ。

「京都の結界」をご参照ください。    

阿倍氏(安倍氏)は、8代孝元天皇の皇子・大彦命(北陸将軍)の皇子・建沼河別命(たけぬなかわわけ、東海将軍)の末裔で、皇室とは血縁になっている。

奈良時代には藤原氏とも姻戚関係になった。

安倍晴明の先祖に右大臣・阿倍御主人(あべのみうし、635年‐703年)がおり、飛鳥時代の高官であった。

奈良県高市郡明日香村阿部山に「特別史跡・キトラ古墳」がにあり、本格的天文図が描かれていることから被葬者は阿部御主人の可能性があるが、40代天武天皇の皇子・高市皇子(たけちのみこ、696年暗殺か)かもしれない。

「阿倍氏」は平安時代に「安倍氏」と改称した。

安倍晴明の父は安倍益材(ますき、大膳大夫)、母は葛の葉(くずのは)で泉州信太(しのだ、和泉市葛の葉町)の白狐と云われる。

安倍晴明は62代村上天皇、65代花山天皇、66代一条天皇、左大臣・藤原道長などの信頼を得た。一条天皇が寛弘4年(1007年)に、堀川通一条に晴明神社を創建した。

晴明神社①晴明神社②をご覧ください。


安倍晴明の息子は安倍吉昌(よしまさ)と安倍吉平(よしひら、954年‐1026年)で、吉平の子孫が現在まで続いているが、室町時代に17代目の安倍有宣(ありのぶ、1433年‐1514年)が土御門(つちみかど)に改姓、土御門家は陰陽寮を統括した。

戦国時代に土御門家は織田信長(1534年‐1582年)に接近、織田家と姻戚関係になった。織田信長の推挙で土御門家は公家成(くげなり)となり、江戸初期に土御門家は「陰陽道宗家」となった。

安倍晴明の正室系の陰陽師と、5人の側室系の陰陽師(木の家、火の家、土の家、金の家、水の家の五家)の子孫も陰陽道を継承している。

五芒星の中心に安倍家が居を構え、周りに五家が居を構えて結界としている。

五芒星(西洋のペンタゴン)

陰陽寮(おんみょうりょう)の結界_d0287413_09332855.jpg

「水の家」の安倍成道(なりみち、1981年生)氏が「日本の結界―陰陽師が明かす秘密の地図帳」などの書籍を著している。

平安時代から「武家の時代(1192年‐1868年)」へ移ると、将軍家や各地の守護大名などを守るために陰陽師(おんみょうじ)が全国の要望に対応していった。

陰陽師の本家が京都に残り、分家などが各地に赴任して大名の家臣・軍師になり陰陽道を駆使していった。

陰陽師には多くの術が伝授されており、術の基本となるのが「結界」である。

従って、日本中に「結界」が張り巡らされることになった。源頼朝の鎌倉開幕(1192年)、徳川家康の江戸開幕(1603年)にも結界が張られた。

「江戸城の結界」をご覧ください。     

江戸の街は260年掛けて拡大発展していったので、その都度張られた「結界」や移転により相当混乱していたと云う。

王政復古の明治維新(1868年)でも「結界」が入念に張られることになった。

明治新政府と陰陽師は全精力で完全な「結界」を新都の東京に仕上げた。

但し、江戸城の立地は「風水」の観点からは良くないので、当初の新都計画は関東平野の西部だったが、明治天皇が江戸城に入城してしまったので計画が変更された。

徳川幕府の本拠地であった江戸城に皇居を設けることは、「王政復古」・「尊王攘夷」を強調するには最適であったかもしれない。

明治政府は、戊辰戦争(1868年‐1869年)の戦死者を祀る「東京招魂社」を九段坂に創建した。長州藩出身の大村益次郎(明治2年没、参道に銅像がある)が創建に尽力した。当初は新政府軍戦死者だけが合祀された。

明治天皇(1852年‐1912年)に仕えたが戦死していない乃木希典陸軍大将(1849年‐1912年、殉死)は祀られていない。

西南戦争(1877年)で官軍と戦い自決した西郷隆盛(1828年‐1877年)も祀られていない。

「朝敵の平将門(903年頃‐940年)」に対しては、東京招魂社の参道・鳥居を2.2km北東の「神田明神」に向けて対峙している。

神田明神


皇居と東京招魂社(靖國神社)の北に雑司ケ谷霊園(豊島区南池袋)、染井霊園(豊島区駒込)、谷中霊園(台東区谷中)を配し、東には水天宮(日本橋)、両国国技館(墨田区横網)、西には明治神宮(渋谷区代々木)、多磨霊園(府中市)、南には日枝神社(永田町)、氷川神社(赤坂)、青山霊園(南青山)、築地本願寺(築地、浄土真宗)を配して結界としている。


東京招魂社は明治12年に明治天皇の命名により「靖國神社」と改称された。各地の招魂社も昭和14年に「護国神社」と改称された。

明治天皇は明治元年(1868年)に、畿内二十二社の「勅祭社」に併せて(赤坂)氷川神社など12社を「准勅祭社」に定め東京鎮護、万民安泰を願ったが明治3年に制度が廃止された。

その内の10社が昭和50年に「東京十社」として定められた。

根津神社(文京区根津)、芝大神宮(港区芝大門)、神田神社(千代田区外神田)、

日枝神社(永田町)、亀戸天神社(江東区亀戸)、白山神社(文京区白山)、

品川神社(品川区北品川)、富岡八幡宮(江東区富岡)、王子神社(北区王子本町)、

氷川神社(赤坂)。


印南神吉(いんなみ かんき)


by enki-eden | 2025-07-19 09:40