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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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契丹古伝

静岡県出身の浜名寛祐(はまなひろすけ、1864年‐1938年)が日露戦争(1904年‐1905年)に従軍し、満州の奉天市(現・遼寧省瀋陽市)にあるチベット仏教のラマ寺院に保管されていた古文書を写し取った。

使用された文字は、契丹語の発音を漢字で表記したもので、日本の万葉仮名のようなものだった。

浜名寛祐は帰国してから長年の研究により、大正15年(1926年)に書籍を出版した。

当書籍に題名はないが、「契丹古伝」、「契丹秘伝」、「東族古伝」などと呼ばれ、神話20章、歴史20章、古頌6章の46章から成っている。

これは契丹だけの古史古伝ではなく、日本を含む東アジア(東夷族)についての史料である。

モンゴル高原東部の遊牧狩猟民族「キタイ」の族長・耶律阿保機(やりつあぼき、872年‐926年)が916年に「契丹国」を建国、太祖となった。

日本では60代醍醐天皇(885年‐930年)の頃である。

「契丹(きったん)」は中国式の国名で、「キタイ(Cathay)」、「キタイ帝国」とも云う。

「契丹国」が北方から華北に南下、華北を制圧すると、2代目太宗の耶律堯骨(やりつぎょうこつ、902年‐947年)が947年に「遼(りょう)」と改称した。

遊牧民族の遼(契丹)はモンゴル平原、満州、華北(中原)を支配した大帝国であった。

後に、遊牧民の「金(1115年‐1234年)」、「元(1271年‐1368年)」、「清(1636年‐1912年)」が中原を支配する最初の例となった。

「遼」は遊牧、農耕、手工業、外交、貿易で富を蓄え、強力な騎馬軍団があった。

遼の俊敏な騎馬兵が広大な国土を護り、「遼」が漢民族を含む多くの民族を有効に支配するために、それぞれの民族の社会システム・宗教などを認め共存体制を取った。

この多民族支配方法が、後にモンゴル帝国(1206年‐1635年)が世界を長期に征服・支配する一定の基準になったと考えられる。

「遼」が華北を捨て、北方の草原に戻ってからは983年に6代目聖宗の耶律文殊奴(やりつもんじゅど、982年‐1031年)が国名を「契丹」に戻し、全盛期をむかえた。

「契丹」は南部(華中)の北宋(960年‐1127年)とは戦争をしたが、1004年に和平条約を結び貿易を拡大し繁栄した。

「契丹」は1066年に8代目道宗の耶律査刺(やりつささつ、1032年‐1101年)が再び国名を「遼」に戻した。

9代目天祚帝の耶律阿果(やりつあか、1075年‐1128年)が、「北宋」と結託したツングース系女真族の「金」(1115年‐1234年)と戦い大敗・逃亡、1125年に「遼(契丹)」は滅亡した。

耶律阿保機の8世孫の耶律大石(やりつたいせき、1087年‐1143年)は、契丹人の騎兵を従え西トルキスタンに逃れ、イスラムのカラハン朝(テュルク系)を従属させ、「西遼」(カラ・キタイ、1132年‐1211年)を建国し、カガン(皇帝)となった。

1141年に広大な中央アジアを制圧した耶律大石は、契丹の故地奪還を狙って大軍で「金」に向かって進軍するが、途中で亡くなり軍は引き返した。

九州国立博物館の「草原の王朝 契丹(きったん)」をご覧ください。「契丹」と「カラハン」の位置が分かる地図もあります。

浜名寛祐が集めた古文書の作者には、「契丹」の分国である「東丹国」の役人・耶律羽之(やりつうし、890年‐941年)もいる。

耶律羽之は遼を建国した耶律阿保機に仕えていた。

45代聖武天皇の神亀4年(727年)から日本と渤海国は親密に交流を始めていた。渤海国(698‐926年)は日本海に面した沿海州にあり、契丹の南東に位置する。

渤海国の烏須勃(うすぼつ)が記した「耶摩駘記」に「その国(大和の国)は秋洲と云い、アキシマと読む。」とある。

烏須勃(うすぼつ)は、渤海国(ぼっかいこく)の国使として49代光仁天皇の宝亀4年(773年)に能登に着いたが、入国を拒否され追い返されたと続日本紀にある。

契丹国が渤海国を滅ぼして、東丹国を926年に建国するが、渤海大使であった裴璆(はいきゅう)が東丹国の使者として来日している。

契丹古伝には「殷(いん、BC1750‐BC1020年)」についての古史古伝も記されている。、

殷(商)と日本列島、琉球は同一民族であったと云う。

殷の最後の紂王(ちゅうおう)が朝鮮半島に箕子国(きしこく)を建てた。

殷朝末期に、「東族」の諸族が「殷」を助けるが、離反する部族(姜族など)も出て紀元前1020頃に「牧野(ぼくや)の決戦」で「殷の紂王」は「周の姫発(武王)」に敗れ滅亡した。

殷(いん)より前の時代に日本列島に住んでいた貊(わいはく)がおり、その後に日本に来たのが契丹族の祖・耶律で、倭人の国を先祖としていた。

私見ですが、縄文時代の日本と殷は交流もあり、混血もあったと考えられますが、「同一民族」ではないと思います。DNAを調べてもらわないと・・・

16,500年前から始まった縄文時代は、世界最古の文明だと云う学説が増えてきたが、縄文人が世界に拡散して文明を広めたようだ。

印南神吉(いんなみ かんき)


by enki-eden | 2025-08-30 10:24