刺国(さしくに)
福岡県福津市(ふくつし)津屋崎(つやざき)の付近を古代では「刺国(さしくに)」と云った。
神功皇后(321年‐389年)がこの刺国(津屋崎)で杖をついて休まれたので「杖刺し→津屋崎」になったと云う。
神功皇后が363年の新羅遠征時に、海外遠征基地となったのが刺国(津屋崎)である。
津屋崎浦は瀬戸になっており良港であった。
刺国の地名は神功皇后由来と云うが、もっと前から存在した。
天照大神の皇孫である天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと、180年頃生)が「朝日がただ刺す国」と言われた「刺国」に降臨した。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は胸副国(むなそうくに、宗像国)から南隣りの刺国に降臨した。
皇孫を出迎えた刺国大神の事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)は安曇族の勝村・勝頼大神(かつむら・かつよりおおかみ)で、神功皇后と共に福岡県福津市の宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)の祭神(宮地嶽三柱大神)として祀られている。
摂津国一之宮の住吉大社の水軍を率いて九州まで進軍してきた神功皇后は、岬(サシ)の津屋崎から安曇の水軍を水先案内として363年に海外出兵した。
これは初代神武天皇(181年‐248年)が211年に大和国橿原(かしはら)で即位してから150年余り後の国家的大事業であった。
国内が概ね統合されて政治が安定したことにより海外出兵が可能になった。
福岡県福津市の宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)は刺国の神で、神功皇后が363年の新羅遠征の際に当地に滞在、宮地嶽山頂より玄界灘を臨み、天神地祇を祀り祈願して船出した。
その後、神功皇后を主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りした。
すぐ裏手にある宮地嶽古墳は「横穴式石室古墳」で、被葬者は素盞嗚尊(すさのおのみこと、140年頃―200年)の長子・「八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)」もしくは「刺国大神」だと思われる。
胸副国(むなそうくに、宗像国)と刺国を合わせて胸刺国(むなさしのくに)と云った。
刺国(さしくに)の地名由来はアイヌ語(縄文語)かもしれない。アイヌ語で「エサシ」は「岬」だと云う。
胸刺(むなさし)の人々が7世紀頃に関東に移住したのか、朝鮮からの移民を定住させたこともあり、埼玉県・東京都・神奈川県周辺が武蔵国(むさしのくに、无邪志国、胸刺国)となった。
今年は昭和100年でしたが、来年の令和8年(2026年)は、日本が精神的に、経済的に、技術的に、政治的に世界の中心になって、隠されていた古代のエネルギー、パワーが復活・全開するときです。
日本人が目覚め、次元が上昇、分断ではなく統合・連携・調和・共鳴で大発展します。
核融合などの技術が進み、正しい政治体制が復活、ダークエネルギーなど宇宙が解明され、次々と未来への希望が湧いてくる時代になると確信しています。
来年の干支は丙午(へいご、ひのえうま)で、昔は「ひのえうま(丙午)に生まれた女性は気性が荒い」と云う迷信がありましたが、既にこの迷信は無くなっています。
印南神吉(いんなみ かんき)

