死海文書(しかいもんじょ)
1947年にベドウィン族(遊牧民のアラブ人)の羊飼いが、ヨルダン川西岸のクムラン洞窟で壺に入った多くの古い巻物を発見した。
死海近くの洞窟で発見されたので「死海文書」と呼ばれ、BC3世紀からAD1世紀の写本で、現在の旧約聖書とほぼ同じ内容であった。
更に、他の洞窟からも多くの文書が発見された。
1世紀前後のユダヤはローマ帝国の支配地で、アラム語が話されていたので、死海文書はヘブライ語、アラム語、ギリシャ語などで記されていた。
当地のクムランではユダヤ教エッセネ派のクムラン教団が活動していたので、死海文書はクムラン教団が残した聖書の写本だったと考えられている。
その内容は、現代の「旧約聖書」に共通するものの他、「外典(がいてん)」や「偽典(ぎてん)」とされているものもあり、クムラン教団の規則や儀式などに関する文書も含まれている。
2,000年前のユダヤ教徒が聖典としていた書物を、後に成立したキリスト教会が「旧約聖書」としてまとめ、教会にとって不都合だと判断した書物は省いて外典、偽典とした。
キリスト教会はイエス・キリストの教え・記録を「新約聖書」として編纂、「旧約聖書」と合わせて「聖書」としたものがキリスト教の聖書である。
キリスト教のカトリックとプロテスタントでは外典にたいする対応が違う。
新約聖書は「イエス・キリストをメシア(救い主)」とするが、ユダヤ教ではメシアと認めていないので、ユダヤ教徒にとってメシア(救い主)はまだ出現していない。
イエスはユダヤ教のエッセネ派クムラン教団に属していたと考えられる。
エッセネ派は「律法」重視、浄めの「洗礼」、荒野での厳しい「修行」、互いに助け合う「共同生活」をしている宗教集団であった。
「祈祷」、「聖餐(せいさん)」にも重点を置いていた。「終末戦争」に対する準備もしていた。
新約聖書の福音書にイエスが荒野で修行した様子が記されている。イエスは何もない荒野で長い断食の修行を重ね、サタンの誘惑を退けた。
「クムラン」は死海の北西部にあり、今でも草木も育たない広大な荒れ地が広がる。
エッセネ派の指導者である「バプテスマ(洗礼)のヨハネ」が、死海に注ぐヨルダン川で多くの人に洗礼(悔い改め、浄め)を施していた。
イエスもヨルダン川にやって来てヨハネから「洗礼」を受け、「荒野で修行」してから伝道・説教活動を始めた。
ヨルダン川では現在でも「キリスト教正教会」の洗礼が行われている。
洗礼者ヨハネによるヨルダン川の洗礼地(Qasr el Yahud、アルマグタス)
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キリストの時代のユダヤ(イスラエル)はローマ帝国の支配下にあり、地名はパレスティナに変更され、言語はヘブライ語ではなくアラム語であった。
紀元30年頃にローマ帝国総督のポンテオ・ピラトがイエス・キリストを磔刑(たっけい)にした。
そして、西暦66年から73年のユダヤ戦争でローマ帝国はユダヤ属州に勝利し、エルサレム神殿は破壊され、ローマに反抗活動をしていたクムラン教団も敗北、聖書(死海文書)などを洞窟に隠した。
日本の中世でも、エッセネ派のように共同生活をする宗教集団があった。
平安時代には終末思想・末法思想もあった。
戦国時代になると京都の法華衆の台頭や、浄土真宗本願寺教団が強固な信仰組織により自治を進め、武装して戦国大名と対立、一揆も頻発した。
織田信長(1534年‐1582年)の天下布武・宗教改革により、天正10年(1582年)に一向一揆が消滅した。
印南神吉(いんなみ かんき)

