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古代史探訪 enkieden.exblog.jp

神社、遺跡めぐり   1943年生   印南神吉 (いんなみかんき)


by enki-eden
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2015年 02月 03日 ( 1 )

縄文時代のイメージ変化

 青森県青森市の縄文遺跡・三内丸山遺跡(さんないまるやま、特別史跡)では、1600年の長い期間に亘る縄文人の生活が続き、780棟を超える住居跡が発見された。
 5500年前から4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間に亘り定住生活が営まれていた。縄文時代は採取活動や獲物を追って移動生活をしていたと考えられていたが、縄文時代のイメージが大きく変わることになる。




 全体では370,000㎡以上の広大な土地に巨木を使った大型建物跡があり、最大のもので長さ32m、幅10mもある。
 10棟以上の大型竪穴住居跡、高床式倉庫などが発見され、貯蔵穴、道路跡、ストーンサークル、墓、盛り土などがあり、長期間の安定的で計画的な生活が営まれていたことが分かる。
 巨大な6本の栗の柱があるが、祭祀施設なのかランドマークだったのか用途がはっきりしない。

 栗(クリ)林の育成や胡桃(クルミ)、橡(トチ)、瓢箪・ごぼう・豆などの有用植物の栽培も行われていた。
 この三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石、岩手県久慈産の琥珀、秋田県産のアスファルト、新潟県姫川産の翡翠など遠隔地との交易を示す遺物も出土しており、安定した生活基盤を背景に、遠方地域との交流・交易が行われていた。
 また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、装身具、木器、骨角器なども出土している。

   三内丸山遺跡のパンフレット(板状土偶)
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 そして、岡山県内で相次いで明らかにされた縄文遺跡発掘調査や研究の成果は、さらに多くの情報を付け加えるものである。岡山県古代吉備文化財センターの河合 忍氏によると、

 『その重要な成果の1つは縄文時代にさかのぼるコメの存在であり、もう1つは列島規模の交流を具体的に物語る考古資料の存在である。
 コメについては、1992年に調査された岡山県南部の総社市南溝手遺跡の調査成果がまず挙げられる。ここでは縄文時代後期後葉(約3500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見された。ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。

 この籾痕土器のほかに、コメが作られていたことを示す証拠にはプラント・オパールがある。プラント・オパールは、コメやススキなどのイネ科植物の葉の細胞にできる植物珪酸体とよばれるガラス質細胞のことである。
 プラント・オパールは植物が枯れた後も半永久的に土壌に残るため、コメが存在していたかどうかを調べるためによく用いられる試料である。このプラント・オパールは800℃の熱にも耐えて残るため、土器の胎土に混入したものも調べることができる。

 土器の胎土中から検出されたイネのプラント・オパールについては、後世の混入の心配がなく、信頼性の高い資料である。最古のものとしては、岡山県真庭市美甘(みかも)村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)の事例があり、このほかに縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
 (DNAの観点からも、縄文時代に江南人が稲などを交易品として吉備、有明海にやってきていた。吉備の人のDNAは縄文人の比率が全国の半分以下である。2012年12月31日の投稿「古代史とDNA」をご参照ください。)
 
 列島規模の交流については、多様な地域との交流を物語る遺物が出土した岡山県北部の奥津町久田堀ノ内遺跡の調査成果が注目される。
 出土物の中には、東北から北陸・関東・近畿・九州地方との関わりを示す約3000年前の土器や北九州産の可能性のある玉のほか、新潟県姫川産の翡翠、香川県産のサヌカイト、島根県隠岐島産の黒曜石などが含まれている。遺物の動きの背景には、人の動きが当然想定されるのであり、列島規模で活動した縄文人の姿が思い描かれる。

 この交流における移動手段についても、久田堀ノ内遺跡の事例は示唆に富んでいる。当遺跡では、続く弥生時代以降も日本海側の物資や情報が盛んに入ってくることが明らかになっていることから、交流ルートの1つは日本海-天神川-吉井川が、もう1つは後期の関東系の土器が久田堀ノ内遺跡のほか、吉井川を下った位置にある県南部の津島岡大遺跡からも出土していることやサヌカイトの分布状況などから、太平洋-瀬戸内海-吉井川がそれぞれ想定できる。
 このことから、縄文時代の長距離の交流は、舟を用いて海・河川を利用するものが主体的であったと考えられる。

 弥生時代になって本格的な水田稲作が伝わって、列島内に瞬く間に広がった背景には、縄文人がコメの有用性を熟知していたことに加え、こうした広域の交流が行われ、情報網というべきものが形成されていたことも一因としてあると考えられる。』と河合 忍氏は発表されている。
 河合氏所属の「古代吉備文化財センター」については、2013年9月6日の投稿をご覧ください。

 プラントオパールの調査により、江南の熱帯ジャポニカが縄文時代から列島に伝わり、その中心は瀬戸内海沿岸の吉備の国と九州の有明海周辺であった。弥生時代になって本格的に伝わった稲の種類も熱帯ジャポニカであった。
 日本人のDNAの調査によっても、吉備の国と有明海周辺が縄文時代から江南人のDNAを受けている結果が出ている。特に吉備では呉系と楚系及び漢系が多い。縄文系は全国平均の半分しかない。
by enki-eden | 2015-02-03 11:13