古代史探訪

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2018年 08月 09日 ( 1 )

弥生時代(やよいじだい)の始まり

 ウィキペディアによると、『弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。
 採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。
 当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。』とある。

 歴博は最後に、『これまでの弥生文化と同じ名称で論を進めると著しい混乱を招くので、その混乱を回避するには,弥生文化の農耕の様態を縄文文化の農耕と区別したうえで,全体枠を生活文化史的経済史的視点から「農耕文化複合」ととらえ,その後に階層分化にもとづく政治的社会の形成(農耕社会の成立)を据える二段構えで弥生文化を理解すべきではないだろうか。』と云っている。歴博の「農耕文化複合と弥生文化」をご覧ください。
  
 この歴博の論法により弥生時代の始まりを紀元前10世紀とすることに、私は同調できません。「時代の転換」を決めるのは、政治・経済・社会が大きく変貌することであって、小規模の稲作が一部地域で確認できただけでは縄文時代の転換にはならないと考えています。
 日本列島での稲作は古くから確認されており、縄文時代にも江南人(揚子江周辺の倭人)が列島へ交易にやってきたり、住み着いたりして稲作も行われている。その渡来数は少なく、列島全体の縄文人の生活が大きく変わるわけではなかった。

 土器から検出されたイネのプラント・オパールの最古のものとしては、岡山県真庭市美甘(みかも)村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5,000年前)の事例があり、このほかにも縄文時代後期中葉(約4,000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡例がある。
 岡山県南部の総社市南溝手遺跡では縄文時代後期後葉(約3,500年前)の土器の器面に籾の痕跡が残る土器(籾痕土器)が発見され、ほぼ同時期の籾痕土器は、倉敷市福田貝塚などからも出土している。
 吉備地方と有明海地方が江南地方と気候風土が似ていて、江南人(倭人)には住みやすかったと考えられる。
 縄文人も江南に行っていたと考えられ、縄文土器(中国名は拍印縄紋陶)が大量に発見されている。

 およそ2,400年前、列島には、縄文人とはまったく異なった顔立ちや身体つきの多くの人々が戦争難民として逃亡してきた。揚子江(長江)周辺からやってきた倭人(呉人、越人)である。
 倭人によって、造船技術や水田稲作の技術、金属器の文化などが伝えられ、列島全体に拡がり、政治・経済・社会が大きく変貌、人々の生活は大きく変化して、弥生時代に入っていった。
 その後も大陸の戦乱を避けて、楚人や漢人なども加わり、長期的・波状的に渡来人が増えてきた。 2015年6月14日投稿の「弥生人のルーツ」をご参照ください。
  
 明治維新の300年以上も前からオランダ人、スペイン人、ポルトガル人などが日本に来て、貿易が進み、キリスト教の布教も行われ、蘭学を真剣に学び、日本人もヨーロッパへ行っている。
 しかし、これで日本全体の政治・経済・社会が大きく変貌したわけではなく、1868年の明治維新により江戸時代から明治時代に大転換した。

 同じように、縄文時代から江南人(倭人)が列島にやってきて、一部の地域で稲作も行われていたが、縄文時代から弥生時代への大転換は、紀元前5世紀に戦乱を原因とする倭人の渡来数が増え、列島全体に弥生文化が急速に広まったことを画期とするのは間違いない。これを機に列島には小国家群が成立して弥生時代に入っていった。
 これは、紀元前473年に呉王夫差が越王勾践により滅ぼされ、難民が四散していったことに始まる。その後、紀元前334年に越王無彊は楚の威王に敗れ、紀元前223年に楚王負芻(ふすう)は秦始皇帝に敗れることになる。列島には波状的に戦争難民が逃れて来た。

 江南人は漢民族に江南を追われ、一部は雲南やインドシナ半島に逃れ、また一部は海路日本へやって来た。縄文人は戦闘的ではなく優しくて、江南人にとって日本の気候も住み易く、急速に日本中に広がって行った。そして水田稲作以外に、高床式住居、千木、鰹木、竹馬、下駄、歌垣、鵜飼等をもたらした。
 また、租税を取ると云う仕組みや、国家創設や政治のシステムをもたらした。

 江南人は銅剣と銅鏡の二種の神器による祭祀をした。従って銅剣は幅広、銅鏡は大型であった。これが弥生時代・古墳時代に日本全体に広がっていく。
 卑弥呼が中国北部の魏からもらった銅鏡は小型であった。三種の神器の一つである八咫の鏡は祭祀用に作られた江南様式の鏡で、大きいのは46cm以上もある。(八咫の鏡とは大きな鏡と云う意味。)
Innami Kanki
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by enki-eden | 2018-08-09 09:53